ADVAN、待ってました!
「伝統のブランドがトップフォーミュラに!」
2016年のモータースポーツ界において、もっともホットな話題は「ADVAN」のトップフォーミュラ復活ではないかと思う。すでに多くの紙面を、伝統の"赤と黒"に塗られたスーパーフォーミュラマシン の勇姿が飾っている。新年のオートサロンでも、横浜タイヤがスーパーフォーミュラ へのワンメイクタイヤ供給が発表された。僕らの周り でも、ステージでスポットライトを浴びるADVANカラーのマシンに、深い郷愁を抱いた奴らも少なくなかった。
「やっぱりトップフォーミュラにADVANがいなくちゃ寂しいよね」
「ADVANカラーに憧れてレースを始めたんだよ」
あの赤と黒に彩られたマシンは、驚くほどの影響力を与えつづけてきたわけだ。
実は僕もかつて、ADVANカラーのマシンでレースの参戦したことがある。それはいまでも大きな勲章だ。レーシングドライバーを志したものにとって、赤と黒のマシンに乗ることは、トップドライバーになった証だったのである。
「長い活躍の歴史があるのです」
横浜タイヤが誇るワークスマシンの象徴であるADVANカラーが初めて登場したのは、1979年のことだ。今から37年前。富士GC(グランドチャンピオン) シリーズのサポートイベントとして、当時隆盛を誇っていたマイナーツーリングレースにその勇姿が確認できる。サニーとスターレットという両雄にそのカラーが託されたのだ。
横浜タイヤが本格的にフォーミュラに参戦したのは1981年。F3にADVANカラーのマシンを投入。デビュー 戦で優勝を飾るなどして、僕らを虜にした。
トップフォーミュラ挑戦は、F3参戦の翌年の1982年である。当時、ブリヂストンとダンロップで 熱いタイヤ戦争が繰り広げられており、その激戦区で 高橋国光さんや故高橋健二さんにステアリンングが託され活躍、一躍、ADVANカラーが モータースポーツの象徴として輝きはじめたのだ。
ADVANカラーがトップフォーミュラから姿を消したのは、1997年。タイヤがブリヂストンのワンメイクとなったことが理由である。時代はワンメイク化に突き進みはじめた頃だったから、けして消極的撤退ではなく、時代に流れに添った形であろう。
「モータースポーツを根底から支えつづけてきた」
あるいは、横浜タイヤへのモータースポーツへの取り組み方も、ADVANカラーが途絶えた理由のひとつかもしれない。
というのも、横浜タイヤは長い間モータースポーツ界を支えてきた。たとえば国内最大手のブリヂストンは、どちらかといえば勝てるチームと勝てるドライバーに「選択と集中」することでブランドイメージを構築してきた。だが横浜タイヤのコンセプト は、可能なかぎり多くのユーザーに高性能タイヤを供給することで、モータースポーツ界を支えるというものである 。
たとえば、多くのタイヤメーカーが撤退する中で、スーパー耐久の全チームにADVANタイヤを供給したこともあったし、スーパーGT300がADVAN一色だったシーズンもある。僕らの間では、"心温かいタイヤメーカー"という認識があるのだ。
おそらくADVANタイヤを履いてことのないプロドライバーなどほとんどいないのではないだろうか。このことは モータースポーツを底辺から支えつづけてきたことの証明だろう。頂点であるトップフォーミュラで開発をし、ブランドイメージを高めるのではなく、よりお客様に近い世界で戦う道を選んだともいえるのだ。
「レース畑の新社長の期待!」
一方で、昨年横浜タイヤの社長が交代したことも、トップフォーミュラ復活と無関係ではないかもしれない。新社長は、オートサロンの壇上でスーパーフォーミュラ参戦を高らかに発表した野地彦旬氏、その人だ。かつてはモータースポーツタイヤの開発の最前線にいた。1996年、ADVAN最後のトップフォーミュラタイヤの開発を担当していたのが野地社長なのだ。
「ビックリしたよ、野地クンが社長になったなんて…」
「野地さんにはたくさんお世話になったよね…」
「彼の開発するタイヤは速かった…」
多くのベテランドライバーは、野地社長の誕生を、親しみを持って迎えた。
実は僕も、ADVANでのシーズンが長かったから、当然のことに野地社長にはお世話になったひとりだ。ただ単に勝ち負けだけではなく、モータースポーツ界での希望や悩みを親身になって聞いたくださった記憶がある。昨年末、社長就任直後にお会いした時、かつてと変わらぬ優しい表情は、経営トップとなった今でも変わらないでいた。
優しいADVANが、トップフォーミュラに参戦することは、より強くモータースポーツ界を支えることだけではなく、市販タイヤの性能が飛躍的に高まるのだとも予想できる。
タイヤワンメイクという特性上、いま誌面を賑わしているADVANカラーのスーパーフォーミュラ マシンが実際に走ることではないかもしれないが、僕らにとって、横浜タイヤのトップフォーミュラ復活はとても嬉しい。
お帰りなさいADVAN。そして野地さん。
木下 隆之 ⁄ レーシングドライバー
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1983年レース活動開始。全日本ツーリングカー選手権(スカイラインGT-Rほか)、全日本F3選手権、スーパーGT(GT500スープラほか)で優勝多数。スーパー耐久では最多勝記録更新中。海外レースにも参戦経験が豊富で、スパフランコルシャン、シャモニー、1992年から参戦を開始したニュルブルクリンク24時間レースでは、日本人として最多出場、最高位(総合5位)を記録。 一方で、数々の雑誌に寄稿。連載コラムなど多数。ヒューマニズム溢れる独特の文体が好評だ。代表作に、短編小説「ジェイズな奴ら」、ビジネス書「豊田章男の人間力」。テレビや講演会出演も積極的に活動中。日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員。日本ボート・オブ・ザ・イヤー選考委員。「第一回ジュノンボーイグランプリ(ウソ)」