時代を駆け抜けた人達のモニュメント
ふと脇に目をやると…
サーキットは時に公園のように感じることがある。有事になれば、爆音が耳をつんざき、地鳴りがするほど大地が揺れる。とても公園を散歩するようなノンビリ気分には慣れないのだが、ひとたび走行が途絶えると、それまでの空気がことさら張り詰めていることもあって、不気味なほどの静寂に包まれるのだ。
そもそもサーキットは郊外に造られるのが基本のようだから緑が多い。広大な敷地にも恵まれている。とりあえずの走行を終えてトボトボと歩いていると、ゆっくりベンチに腰をおろしてひと息つきたくなるのだ。モーターパークなどとも呼ぶから、サーキットはやはり公園なのだ。
そんな穏やかな時間になると、実はサーキットには、数々の時代を駆け抜けた人達を記憶に留めるための記念碑が多いことに気づく。
立派にこしらえた銅像を見かけることもあるし、文字や名前を刻んだ石造りの作品もある。
記念樹も少なくない。樹木は育つから、その丈で歴史を感じるのも悪くはない。実や咲き誇る花が、独特のストーリーを描く。それも一興なのだ。
人物や時代、あるいは事件を歴史的、社会的に永遠に記念するためのものが記念碑であり記念樹である。モニュメントという言葉には「思い起こさせる」という意味が含まれている。人物や功績や栄光を風化させないための時代の刻みなのである。
いつかは日本人の名が刻まれるのかもしれない
ニュルブルクリンクは正面ゲートをくぐり、インフィールドに足を踏み入れたその壁に、歴代の優勝ドライバーの名が刻まれている。そこには残念ながら日本人の名は見当たらないけれど、いつか近い将来そこに、誰かの名が記されることを願う。それが自分の名前であればなお光栄だが、たとえそれが叶わなくとも、誰かに歴史を刻んでほしいと思い、ついつい立ち止まってしまうのだ。
サブゲート脇には、数々のドライバーの名を記した記念碑や記念樹が並ぶ。ドイツの英雄、ミハエル・シューマッハーの名ももちろん刻まれている。記念樹は、天に召された人物だけが対象ではないけれど、彼の痛ましい事故と現状を重ね合わせると、思いはひときわ重くなるものだ。
「ADACフォーミュラー・フェスティスバル 1993」と記されている。彼が華々しくF1デビューしたのは1991年。非力なジョーダンを駆っての雨のスパフランコルシャンは記憶に鮮やかだが、フル参戦は1992年からだ。1993年はニュルブルクリンクではF1は開催されておらず、なにかのイベントの時に植樹されたのだろうと推測する。
世界チャンピオンに輝くのはその翌年の1994年だから、皇帝になる前にすでに強烈な存在感を放っていたことが伺えるのだ。ドイツの英雄になる前の記念樹だというあたりがただならぬ逸材であることの証拠だろう。
選ばれた人達の名がそこにある
エンツォ・フェラーリの記念碑にはもちろん跳ね馬が描かれている。誕生した1898年から没年の1988年の数字が見える。思えばずいぶんと長生きしたのだ。太く長く、濃く厚い人生だったのだ。その功績も十分に熱い。
日本でも植樹は少なくない。全日本ツーリングカー選手権で勝利するたびに植樹式が行われていた時代もある。今は見掛けなくなった。なんだか寂しい。
たしかスポーツランドSUGOや十勝スピードウェイで植樹した記憶があるから、今度探しにいってみよう。施設整備とともに消えてしまっているかもしれないけど…。
公園のように美しい夕暮れ時のサーキットで、ひとりモニュメントに思いをはせてみるのも心地良いものだ。
木下 隆之 ⁄ レーシングドライバー
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1983年レース活動開始。全日本ツーリングカー選手権(スカイラインGT-Rほか)、全日本F3選手権、スーパーGT(GT500スープラほか)で優勝多数。スーパー耐久では最多勝記録更新中。海外レースにも参戦経験が豊富で、スパフランコルシャン、シャモニー、1992年から参戦を開始したニュルブルクリンク24時間レースでは、日本人として最多出場、最高位(総合5位)を記録。 一方で、数々の雑誌に寄稿。連載コラムなど多数。ヒューマニズム溢れる独特の文体が好評だ。代表作に、短編小説「ジェイズな奴ら」、ビジネス書「豊田章男の人間力」。テレビや講演会出演も積極的に活動中。日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員。日本ボート・オブ・ザ・イヤー選考委員。「第一回ジュノンボーイグランプリ(ウソ)」