さようなら、速かったランエボ!
ついにこの日が来てしまった…
心のどこかで予感はしていたとはいえ、現実のこととして突きつけられると寂しさに落ち込む。「ランサー・エボリューション」が23年の歴史に幕を閉じることになったのだ。
長い間、僕は、ランエボとともにモータースポーツ活動を続けてきた。エボⅤが第二世代に進化したときからの付き合いだ。1997年から僕はランエボのコクピットで戦うようになったのだ。それ以来三菱がワークス活動から撤退するエボⅩまでの8年間の、僕の相棒である。
勝ったことしか記憶にない…
特に、ワークスチームとして参戦したスーパー耐久では、数年連続でクラス2チャンピオンに輝いている。全戦ポールポジションも珍しくなく、参戦した全レースでポール&ウインを達成したのもけして一度だけではなかった。その前年から通算して連続ポールポジションは20数回に達したのだったと思う。曖昧な言い方をしたのにはワケがある。不遜を承知で言えば、ポールポジションがとれなかったレースが思い出せないほどなのである。それほど僕らのランエボは速かった。
ランエボの速さはクラスを越えていた。排気量で優るクラス1のスカイラインGT-Rを破り、クラス2による史上初の総合優勝に輝いてみせたこともあったのだ。雨の仙台ハイランドで、雨に足元をすくわれるスカイラインGT-Rを追い駆け回し、抜き去ったあの記憶はいまでも鮮明だ。いまだに破られていないであろう僕のスーパー耐久最多勝記録は、そのほとんどがランエボによってカウントしたものなのである。僕のレース生活の、いや木下隆之というひとりの男の人生の大切な時間はそっくりそのままランエボとの時間でもある。そんな、僕にとって忘れられないランエボが、この夏に1000台限定で発売される「ファイナルエディション」を最後に、一切の生産を打ち切るというのだ。その事実を初めて聞かされた時、僕は呆然と立ち尽くし、やがて皮膚の内側がザワザワとしはじめ、椅子に砕け落ちた。
DNAは競技場にある
ランエボがWRC世界ラリー選手権を制覇するためのホモロゲーションモデルとして誕生したのが1992年のことだ。それまで三菱の戦闘的役割を果たしていた「ギャランVR-4」が時代の要請によって肥大化していき、軽量コンパクトなランサーがその使命を担ったのだ。
それ以来「ランエボ」は、三菱のスポーツイメージを牽引していくことになる。四年連続WRCドライバーズチャンピオンという華々しい戦績を残したばかりか、三菱自動車初の世界選手権マニュファクチャラーズタイトルをもたらしたのだ。
全日本ラリー、全日本ジムカーナ、全日本ダートラ、そして僕が担当していたスーパー耐久。ステージを問わず、ランエボは勇猛果敢に駆け回った。週末になれば全国のどこかの競技場で必ず、ランエボ乗りが表彰台の頂上で笑顔を振りまいていたことに疑いはない。
ランエボは草の根モータースポーツを支えてきた。ランエボが誕生しなかったら、世界のモータースポーツはどうなっていたのだろう。想像するだけで怖い。
ワインディングキラーとしての存在
一方で、安価なスーパーカーキラーとして圧倒的な存在感を誇った。チューニングの素材としてもみんなが惚れた。峠道ではパワーで優るスカイラインGT-Rやスープラをカモにしたし、そればかりかフェラーリやポルシェの背後を追い回すランエボの姿を頻繁に目にしたものだ。
エンジンはたった2リッターながら、可変4バルブ+インタークーラーターボ国内上限の280馬力。後輪トルクスプリットAYCが電子制御前後トルク配分センターデフACDと組み合わされた。シートはレカロ、ホイールはBBS、ダンパーはビルシュタイン、スプリングはアイバッハ、ブレーキはブレンボ…。およそ考えられるかぎりの世界一流ブランドが余すことなく奢られていたのだ。それでたったの300万円代だというのだから驚きである。数千万円もするスーパーカーがパワーを持て余してヨタヨタと走る姿をあざ笑いながら抜き去る。腰のひけたスーパーカー達が震撼したのもうなずける。
もっとも憎むべき宿敵は、最高のライバルだった
最大のライバルは、スバル・インプレッサWRX STIだった。出自がWRCであることも、排気量が2リッターであることも、ベースが4ドアセダンであることも同じ。モータースポーツファンに支持されている点も同様だ。
当初はパルサーGTI-RやセリカGT-FOURも同じライバル群の中にいたにはいたが、ランエボとインプの進化の激しさにはついていけず、やがて「ランエボVSインプ」の二強時代になった。
かつて性能を測る尺度として盛んに行われていた筑波サーキットアタックでは、コンマ数秒の競り合いを常に演じていた。三菱とスバルのお互いの負けず嫌いの魂が、己を鍛え上げていった。インプがあったからエボがあった。エボがあるからインプがいる。そう言われたほど良きライバル関係にあったのである。
ところが、もう手が付けられなくなったために、ふとうしろを振り返ってみれば、追従するモデルはなくなり、ガラパゴス化したのである。
駆動理論の教材であり師匠だった
僕にとっては実は、ランエボは駆動制御理論とドライビングの「師匠」でもあった。
センターデフは差動制限を自在にコントロールすることによって前後駆動配分を可能にし、リアデフに組み込まれた左右駆動配分機構はヨーを自在に増減した。スポーツABSはエボⅩでアクティブ・ブレーキコントロールシステムが加わり、加速中のブレーキングをもこなすようになった。
これらの開発責任者である澤瀬薫博士との開発作業では、タイヤを常に接地させることの重要さを嫌というほど学んだ。駆動配分の活用方法だけでなく、サスペンションセットも学んだのだ。僕が開発担当したレーシングカーは、比較的易しい乗り味だといわれることが多い。実際にそれを理想として開発している。それはこの時代に身につけたセッティング理論がベースになっているのだ。
ドライビングも、いかに駆動力をバランス良くさせるかに注視する。そんなスタイルになってしまった。それは、スカイラインGT-R時代のアテーサE-TSで前後駆動配分を学び、スポーツABSの開発を担当し、そして総仕上げとしてランエボでのヨーコントロール技術に触れたからなのだと思っている。
師匠は今年の夏に、師匠としての役目を終えて勇退することになった。それでも僕にとってランエボは、いつまでもずっと僕の師匠でいつづける。
アニキ流 ランエボ・ヒストリー
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■エボリューションⅠ
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■エボリューションⅡ
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■エボリューションⅢ
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■エボリューションⅣ
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■エボリューションⅤ
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■エボリューションⅥ
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■エボリューションⅦ
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■エボリューションⅧ
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■エボリューションⅨ
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■エボリューションⅩ
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■エボリューション ファイナルエディション
木下 隆之 ⁄ レーシングドライバー
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1983年レース活動開始。全日本ツーリングカー選手権(スカイラインGT-Rほか)、全日本F3選手権、スーパーGT(GT500スープラほか)で優勝多数。スーパー耐久では最多勝記録更新中。海外レースにも参戦経験が豊富で、スパフランコルシャン、シャモニー、1992年から参戦を開始したニュルブルクリンク24時間レースでは、日本人として最多出場、最高位(総合5位)を記録。 一方で、数々の雑誌に寄稿。連載コラムなど多数。ヒューマニズム溢れる独特の文体が好評だ。代表作に、短編小説「ジェイズな奴ら」、ビジネス書「豊田章男の人間力」。テレビや講演会出演も積極的に活動中。日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員。日本ボート・オブ・ザ・イヤー選考委員。「第一回ジュノンボーイグランプリ(ウソ)」