荒涼とした原野やアップダウンがひたすら続く砂丘。そんな難関だらけのコースを10日以上走り抜くダカールラリー。この過酷なラリーをナビゲーターとして2勝、ドライバーとしても1勝を挙げている三浦昂選手。
実績あるラリーストである彼は、会社員としても日々働く顔も持つ。
"砂漠でちょっと走り込もうか"なんて簡単にはできないモータースポーツで、さらには忙しい業務を抱えるなか、勝利のため、自身の向上のために努力する。そんな会社員ラリーストが積み重ねてきた、悪戦苦闘の"ペースノート"を語ってもらった。
「チームの半数がフランス人ならばと、
フランス語の履歴書も加えました」
モータースポーツ大好きの一念で、新入社員がナビゲーターの社内選考を突破する。
「一番難しいのは砂丘を越えるときです。ジャンプ自体は怖くはない。でも砂丘はとにかく怖かった。なぜなら、ピークを越える瞬間は空しか見えないからです。アクセル全開で勢いよく飛び出せばその先で転倒するし、ピークの手前でスピードを落とせば亀の子(の状態)※1になってスタック※2する。かと言って、スピードが足りなければ上れない。
だから、加速して後輪荷重で登り、前輪がピークを過ぎて浮いた瞬間にアクセルを抜き前荷重にして、接地した瞬間にアクセルを踏んでいけば綺麗に加速していきます。それを、前に空しか見えない状態でやらなければいけないから、めちゃくちゃ怖さがあります」
※1・・・亀の子の状態:亀が堅い甲羅の腹を石の頂点に乗せて足が届かなくなり、身動き出来なくなる様子。
※2・・・スタック:タイヤやハンドルを回しても空回りして、クルマの動きがまったくとれない状態。
砂漠の走りの難しさを語るのは、トヨタ車体株式会社の社員でありながら、ダカールラリーにTeam Land Cruiser TOYOTA AUTO BODY(TLC)のランドクルーザーで挑み、市販車部門で昨年は優勝、今年は2位となったドライバー、三浦昂だ。
「TOYOTA GAZOO Racing所属の選手は履歴書の職業欄に"プロドライバー"と書くのでしょうが、僕は"会社員"です。そんな僕がTGRのイベントでステージに上がったら『僕なんかが中嶋選手、立川選手の隣でいいんですか? 舞台の袖で十分ですよ』って、正直ビビります(笑)」
元々F1やSUPER GTに憧れる一学生だった三浦は、ダカールラリーに参戦する会社というイメージでトヨタ車体株式会社の門を叩いた。ランドクルーザーを生産するトヨタ車体は、自社プロジェクトとして「社員の手作り」をテーマに、監督とナビゲーターはプロではなく社員を起用していた。入社1年目、早速と社内公募に手を上げた三浦は、なんとか勝ち残ろうと秘策を考えた。
「履歴書もパッと見た瞬間に目立たなければと思いました。チームの半数はフランス人だと聞いたので、彼らも選考に関わると予想して、フランス語版の履歴書も作成して提出しました。本屋でフランス語の手引きを買って、ネットで調べて。自分では意味もわからないまま書いて、フランス語のできる友人に添削してもらいました」
何が何でもモータースポーツに関わりたいと猪突猛進した結果、三浦は選考を通過。ナビゲーターの基本養成を受けると、その年のゴールデンウィーク明けにはモロッコへ飛んでチームに合流。過去のダカールラリーのコースでの練習が始まった。
「ナビゲーターとして何をするべきかもわからないまま、フランス人のプロばかりのチームに放り込まれて。ひとりだけ浮いていて、正直、恐怖心に包まれていました」
「初のダカールで勝ってしまった。
喜びも悔しさもなく、
空しい気分になりました」
チームでの存在意義を求めて、社員ナビゲーターとして創意工夫の努力が始まった。
右も左もわからないまま出場した2007年。初のダカールラリーで、三浦のランドクルーザーはなんと市販車部門で優勝する。しかし三浦は喜べなかった。
「運良くデビュー戦で勝ってしまったのですが、何もしないうちに終わっていました。なぜ勝ったのかもわからず、喜べるわけでもなく悔しいでもなく。敢えて言うなら、空(むな)しい気分になりました......」
三浦が"空しさ"を埋めるには、時間が必要だった。
「最初の2年間はポンコツのままでした。それが悔しくて。(自分が)存在する意味があって、このチームに求められるようになりたいと思いました。当初、僕がチームに関われるのは3年という予定で、2008年はラリーが中止になってしまったので、3年目の2009年が最後です。このまま『わからない』で済ませていたら、本当にわからないまま終わってしまうと思って、追いつくためにいろいろなことを考えて努力しました」
一般的なトレーニングも欠かさなかったが、三浦はダカールラリーを意識した独自のメニューも加えて自身を鍛えた。彼がアフリカにでも常駐していれば、実戦想定の走り込み練習も容易だろう。しかし、三浦は日本企業の会社員だ。1年の2/3は国内で会社の業務もする。そこで、日常生活をラリーに置き換えて重ねる工夫を試みた。
「出張でクルマに乗れば、絶対にカーナビは使わないようにしました。(紙の)地図を見て目的地へ行き、帰りは記憶だけで同じ道を戻る。それを携帯のログに取っておいて、後で間違っていないかをチェック。そういうことを繰り返して、"ミスコースしたときどうやって戻るのか?"をトレーニングしました。あと、ナビゲーターは距離と時間を即座に計算できなければいけません。でも車内が60度くらいになることあって、頭がボーッとしたりします。そこで、体力トレーニングをやって疲れ果ててからスーパー銭湯のサウナに行って、タオルの中にこっそり隠した小学生の計算ドリルを解いてみたり。これは......あまり意味なかったかな(笑)」
懸命な努力の末、迎えた2009年。3年目のダカールラリーで、三浦は再びナビゲーターとしてランドクルーザー200に乗り市販車部門の優勝を飾った。今度は手応えを感じたと言う。
「この時は喜べました。実はラリー中に、誰もがコースを見失って右往左往する場面がありました。ライバルは、あるポイントで右に曲がって行く。でも僕は『まだ曲がるのは早い、数百m先だ』と判断した。それでドライバーにどう思うかを聞いてみました。そうしたら『俺のナビはお前だ。だから俺はミウラの言う通りに走る』と言ってくれました。そのとき初めて『ああ、ナビになれた』と思えました。僕の判断は正しかったのですが、勝ったことより、ナビを任されたと思えたときが嬉しかったです。初めてラリーがおもしろいと思えました」
「元々はドライバーになりたかった。
だから『僕がやってはダメですか?』と言った」
勢いの提案で顔面蒼白も、社長の言葉にも後押しされてドライバーへの挑戦を決める。
当初の予定では、2010年のダカールラリーを最後に三浦の任期は終了して通常業務に戻り、ラリー活動は後任に引き継ぐことになっていた。しかしやっとナビゲーターとしてスタートラインに立てた実感を得たタイミングだったので、、残念でならなかった。
その思いが通じたか、2013年から再び三浦はナビゲーターとしてランドクルーザーに乗り込む機会を得た。
「こんな幸運はそうそうあるものではないので"絶対に勝ちたい"と思って取り組むことに決めました」という三浦。会社では企業広報の仕事を担当しながら、ダカールラリーを再び闘うことになった。そればかりか、2015年シーズンの途中でナビゲーターからドライバーへの転向を果たす。
「元々はドライバーになりたかった。2016年は会社が創立70周年を迎えるので、ダカールラリーでも何か新しいチャレンジをしようという流れになり、チーム体制の変更も検討議題にあがりました。この機にドライバーも替えるなら『もしかしたら自分にもチャンスがあるかな?』という想いが頭をよぎって。怒られてもクビになることはないだろう(苦笑)と心を決めて『僕がやってはダメですか?』と言ってみました」
会議の席で立候補した後、自席に戻った三浦は怖くなった。そこに社長から『ちょっと来い』と直接電話があった。
「提案後は、自分で言っておきながら『ドライバーなんて、どうやってやるんだよ』と、顔面蒼白状態でした。当時の社長に呼ばれたときは"絶対怒られる"と。ところが『もしスタート前日に"怖い"と感じたら俺に言え。そのときは走らなくていい。自分が責任を持つ』と言ってくれて。その瞬間に腹が決まりました。絶対に成功させようと......」
三浦はドライバーとして、2015年のモロッコラリーでデビュー。なんとこのラリーで市販車部門優勝を遂げた。本命のダカールラリーでは2016年に部門5位、2017年に部門準優勝、そして2018年には初優勝を飾った。
「怖いと思ってしまったら、それに飲まれてしまう。ナビゲーターも完璧だと言えないけれど最初よりはましになったから『ドライバーだって、できるようになる』と自分に言い聞かせました。初めてステアリングを握ったときには、それまでナビとして偉そうに『ああしろ。こうしろ』と言ってきたけれど、運転するのは本当に大変だな、と(笑)。
開き直って、走らせ方をいろんな人に聞いて回ると、皆が言うことがありました。『ハンドルを切る、アクセルを踏むという操作自体は小学生にだってできる。ドライビングの本質は操作じゃない。クルマがどうなっているのかを、いかに感じ取るかが問題なんだ。意識をそっちへ持って行け』と。なるほどと思いましたね」
ドライビングを習得する中では、冒頭の「砂丘越え」も乗り越えるべき課題だった。
「『砂丘越えは見えなくて怖い』と聞いたら『見えないのはお前が見てないだけ。見えるものはもっといろいろある。正面は空でも、横の窓からは別の景色が見えるはずだ』と言う。『ああ、視野が狭かったんだな』と思いました。確かに砂丘の稜線は横につながっているので、横の窓を見て感覚がつかめるようになって。そうやって、少しずつ克服して。もう今は怖くなくなりましたよ」
「ドライバーとして自分の伸びしろは、
まだあると信じています」
今季のワン・ツーにも満足せず。チーム7連覇を目指し、来年の準備に取りかかる。
今年1月に開催された2019年ダカールラリーに、三浦はナビゲーターのローラン・リシトロイシターとTeam Land Cruiser TOYOTA AUTO BODY(TLC)の2号車で出走。総合29位、市販車部門2位に入賞した。同じTLCから出走したクリスチャン・ラビエル/ジャン・ピエール-ギャルサン組が総合24位で市販車部門優勝を飾り、TLCは市販車部門をワン・ツー・フィニッシュ。これで部門6連覇を遂げたことになる。
今、三浦は来年のダカールラリーを視野に入れて準備を進めている。
「ドライビングに自信ができたかと言われたら、まだまだです。でもドライバーとしてチームとの信頼関係は少しずつ深められていると感じていますし、自分の伸びしろは、まだあると信じています。来年は市販車部門の7連覇が掛かっていますし、その記録を自分のドライビングで打ち立てることが今の目標であり、夢です」
三浦の想いは、すでに新たな砂丘の向こうへ飛ぼうとしている。