松井 孝允「胸を張って自分はプロだと言えた日」| The Cross Roads 〜TOYOTA GAZOO Racingのドライバー達が語るあの日、あの時〜

自分が志してきた道を諦める。これほど辛いことはないが、子供が大人になる時に当たり前にぶつかる壁であり、多くはそこで"別の道"に進む。
2016年にGT300クラスのチャンピオンとなり、今やTOYOTA GAZOO Racingのニュルブルクリンク24時間レースへの挑戦に欠かせないドライバーとなった松井孝允。彼は一度"プロのレーシングドライバー"への道を断念したが、そこから這い上がってきた。そして、たどり着いたニュルブルクリンクで行う"もっといいクルマづくり"で、彼が見つけたと言うプロとしての"自分の仕事"とは何だったのだろうか?

松井孝允

「レースゲームと同じ世界があると聞き、
岡山へレース観戦に連れてってもらった」

レーシングドライバーのカッコ良さに憧れて、岡山でカートレースを始める。

 今年もTOYOTA GAZOO Racingは、ドライバー、エンジニア、メカニックが一丸となってニュルブルクリンク24時間レースに挑む。ドライバー陣のリーダーを務めるはベテランの土屋武士。そして、蒲生尚弥、松井孝允、中山雄一と若手中心の強力な布陣が世界一の難所と言われるコースでLEXUS LCを24時間にわたり走らせるのだ。
 チームの一員である松井は、リーダーの土屋とは師弟関係にある。土屋にレースを学び、一時期はレース生活をあきらめる時期もあったが、チャンスを与えられて励まされ、今は共に闘う立場となった。

24時間レースの前哨戦、QFレースに挑む

「元々は子供の頃、家庭用ゲーム機の『グランツーリスモ』をやっているうちにレースに興味を持ったんですよ」と松井は振り返る。
「ゲームの中でやっていることを、実際にやっている場所があるんだと聞いて、おじいちゃんに連れられて広島から岡山国際サーキットへレース観戦に出かけました。音がすごいのでびっくりしました。でも本当にカッコ良かったので『レーシングドライバーになりたい!』と思いました」

少年時代、兄弟でレース観戦に行った岡山国際サーキットの思い出

 広島県福山市出身の松井は、岡山国際サーキットで営業していたレンタルカート場に通うようになり、そしてアルバイトをしながらミッション付きレーシングカートのレースに出場するようになる。ただ、この時点で彼は、プロのレーシングドライバーになる過程を知らなかった。そこに手を差し伸べたのが、当時広島を拠点にレーシングチームを運営する傍ら岡山国際サーキットで競技長を務めていた藤田直廣氏だった。

「藤田さんに、ステップアップするならFTRS(フォーミュラトヨタ・レーシングスクール)というのがあると紹介してもらいました。しかも、いきなりF3に乗せてくれたんです」

2年目のFCJ。ランキング4位もTDPから外れることに・・・

「FTRSではうまくいって
"このままプロになれそう"
と思ったのですが......」

FTRSを好成績で卒業するも、FCJで壁に阻まれ、再度の挑戦は後輩選手に先行される。

 松井は、大勢の若手ドライバーを発掘、育成してきた経験のある藤田の目に止まったのだ。その勧めに従って松井はFTRSの門を叩くが、まだ4輪の走らせ方も知らない若者には敷居が高く1年目は不合格となった。しかし2年目の2006年、入門フォーミュラのFJ1600で経験を積んだ松井はFTRSに加わり、好成績を挙げて2007年にはTOYOTAの若手育成プログラムであるTDP(トヨタ・ヤング・ドライバーズ・プログラム)入りしてFCJ(フォーミュラチャレンジ・ジャパン)に出場することになった。ここまでは順風満帆の駆け出しであった。ところが、松井は自信満々で臨んだFCJでつまずいてしまう。

「FTRSではすごくうまくいって"これはいけるぞ。このままプロになれそうだな"と思っていました。でもFCJに上がってみると、速いクルマの経験がなくて走らせ方が分かりませんでした。何が原因で遅いのか、それすら全然わからなかったんです。FCJを2年続けて、2年目はなんとなく理解ができて勝つこともできましたが、その年は国本(雄資)君が速くて太刀打ちできませんでした」

2008年のFCJ。ランキング4位と善戦するも、国本雄資が立ちはだかる

 2年目のFCJをシリーズランキング4位で終えたものの、松井はTDPから外れることになった。結果が出せなかったのだからTDPから外れたのは仕方がないなと、松井は自分を納得させた。それでも、自分の才能にはまだ自信があった。
 2009年はスーパー耐久を戦いながら機会をうかがっていた松井は2010年、支援者を得て3度目のFCJに挑戦することになった。しかしこのシーズンはTDPから出走した中山雄一が圧倒的な速さでシーズンを制圧し、松井は1勝を挙げたもののシリーズ2位に終わった。

2016年のSUPER GT、恩師・土屋武士とともにGT300クラスを戦う

「"FCJのときのように後悔をしないぞ"
と気持ちを入れ替えて、JAF-F4に臨みました」

一度はプロを諦めて会社員となるも、続けたレース活動。そこで土屋から声が掛かる。

「さすがにこれではもう『プロを目指してレースをやっていてもしようがない。僕にはきっと何かが足りないんだ。もうあきらめよう。レースは趣味で続けられればそれでいいや』と思いました。未練は残りませんでした。結構、あっさりした気分でした」

 松井は運送業の会社に就職し、時々は草レースに出場する会社員となった。それでも、プロの世界と縁が切れたわけではなかった。そんな松井に、声をかけ続けた人物がいた。FTRSで講師として松井の指導にあたった土屋である。松井も土屋を慕って、FCJ参戦にあたって土屋が運営するガレージ「つちやエンジニアリング」に近い藤沢市内に居を構え、横浜にある会社からの帰りには工場に寄って時間を過ごす関係を続けていた。

JAF-F4時代の松井と土屋

 松井は土屋の指導が非常にためになったと思い出す。「土屋さんは、コースの外から僕の走りを見て、僕の弱点を正確に見抜いてシンプルに指摘してくれます。データロガーもためにはなるんですが、僕にとってはロガーよりも外から見てもらって、指摘されるアドバイスに大きな意味がありました。たとえば僕は、ずっとフロントタイヤに頼った走りをしていましたが、もっとリアタイヤをうまく使えとアドバイスをもらったりしました」

JAF-F4時代の松井

 松井は土屋と共にレースへスポット参戦を続けた。すると、本格的にサーキットへ復帰するチャンスがもたらされた。つちやエンジニアリングのサポーターによるJAF-F4参戦プロジェクトが持ち上がりドライバーとして松井に声がかかったのだ。

「まだ少なからずプロになりたいという気持ちは残っていましたから『ぜひ!』と答えました。それで"FCJのときのように後悔をしないぞ"と気持ちを入れ替えて臨みました」
 東日本シリーズを中心に1年間9戦を戦った松井は、優勝1回、7戦で表彰台に上がるという好成績を残した。しかしまたもやチャンピオンにはなれなかった。

JAF-F4時代の松井と土屋

「上には上がいるなあとは思いました。やっぱりプロにはなれないのかなと正直なところ思いました」
 ところがこれをきっかけに松井の道が開けていく。土屋と共にアジアン・ル・マン・シリーズに出場。翌2015年にはつちやエンジニアリングと共に、SUPER GTのGT300クラスへフル参戦することが決まった。さらに、シーズン途中ではTOYOTA GAZOO Racingに加わってスーパー耐久への参戦も果たした。
 2016年には土屋と共にGT300クラスで2勝を挙げ、念願のチャンピオンを獲得。この年をもって土屋がSUPER GTのレギュラードライバーを引退したが、恩師に優秀の美を贈ることが果たせた。

2016年のSUPER GT最終戦もてぎで優勝を飾り、恩師と共に悲願のタイトルを獲得

「僕は人に恵まれていました。土屋さんはもちろんなんだけど、TOYOTA GAZOO Racingには、蒲生(尚弥)選手が推薦してくれたと聞いています。その期待を裏切らないようにするためには、僕は変わらなければいけないなと気持ちが新たになりました」
 蒲生選手は、松井とほぼ同じ時期にFTRSからTDPに入った、いわばライバルであり2013年からTOYOTA GAZOO Racingのニュルブルクリンク24時間レースのプロジェクトに加わっていた。競争相手であった松井は、場合によっては自分のポジションを脅かすことになるかもしれないのに、なぜ推薦したのだろうか。

蒲生尚弥に続き、TOYOTA GAZOO Racingのニュルブルクリンク24時間プロジェクトに加わる

「呼び入れても多分(自分を脅かす)心配ないヤツだと思ったんでしょうか(笑)。でも、TOYOTA GAZOO Racingは、誰かを蹴落として上を目指すと言うよりは、みんなで一緒に戦うというファミリーのような空気が流れるチームなんだということが、入ってみてわかりました。とは言え"レースによって、もっといいクルマをつくる"という部分での緊張感はすごいです。僕ら若手は、今まで多くのクルマを作ってきたベテランたちからいろいろなことを勉強しています。でも、何かちょっと気になったことがあれば、キャリアは関係なく何でも言い合える。いい雰囲気です。すごく居心地がいいです。緊張感を持ってひとつのことをやっていくファミリーなんです」

2018年のニュルブルクリンク24時間レースで、LEXUS LCを駆る

「クルマと会話し、必要な情報を言葉にして伝える。
それこそが僕の得意な仕事なんだ」

ニュルブルクリンク24時間レースのチームに加わり、やっと見つけたプロとしての自分の仕事。

 松井が初めてニュルブルクリンクの地を踏んだのは2015年のこと。ニュルブルクリンクは世界に名だたる難コースで「果たして1周まともに走って帰ってこられるだろうか」と感じるのも無理からぬことだった。しかし、それ以上に松井を慌てさせたのが、トヨタ自動車の社員テストドライバーであり、チーフメカニックとしてチームに加わる平田泰男氏だった。

ニュルブルクリンクの走り方を教わったトヨタ自動車社員テストドライバー平田泰男と

「最初、平田さんの横に乗ってコースを走ったんですけど、平田さんは助手席の僕に『ここはこうだよ』と説明しながらなのに、あまりにもうまくて速いんです。『僕はこんなに速く走れないぞ。これ、僕が走る意味あるのかな?』と思わされました。大変なプレッシャーになりました」

 2015年、松井にとって最初のニュルブルクリンク24時間レースは「何が何だかわからない」ままに終わってしまった。翌年に向けて松井は自分ができることが何なのか、改めて考え気持ちを入れ替えて2年目を迎えた。

「速く走ることでいっぱいいっぱいになってしまわず、もっといいクルマづくりをするために、クルマと会話して他の人が感じ取れないようなことまで感じ取り、必要な情報を持ち帰って言葉にして伝えることが大事なんだと気付きました。それこそが僕の得意な仕事だし、僕にしかできないことだと思えるようになりました。2016年からはそういうことができるようになって胸を張って"自分はプロだ"と言えるようになりました」

過去の経験と、ニュルでの経験から、プロとしての自分の仕事を見出す

 松井には、自分に求められている仕事をこなすために心掛けていることがあるという。

「より良いクルマを作るためには、ただ単に速く走ればいいというものではありません。クルマの方で何かを変えたとき、それを運転でアジャストしてしまうと何が変わったかを評価できなくなるので、自分の運転を変えず、(クルマが)変わったことを正確に感じ取って評価することを心掛けています」

恩師・土屋武士と、つちやエンジニアリングのガレージにて

 松井は今、5年目のニュルブルクリンク24時間レースに向けて準備を進めている。
「すごく責任の大きなプロジェクトです。クルマを鍛えれば僕らも鍛えられます。ニュルの活動は完走しないとまったく意味がないので、1周でも多く走らせることが目標です。順位も大事ではあるけれど、走り終えた僕たちが『楽しかった』と思うことが、TOYOTA GAZOO Racingの目指すべきゴールなのかなと思うんです」