土屋 武士「僕の大好きなレースを求めて...」| The Cross Roads 〜TOYOTA GAZOO Racingのドライバー達が語るあの日、あの時〜

華のあるドライバー、クルマの技術、チームの戦術、レースのドラマ等々と、モータースポーツにはたくさん魅力がある。特にその中に身を置いた者は、その緊張感や喜怒哀楽から離れがたいと口を揃える。
国内トップドライバーとして実績を残し、現在もチームオーナー兼レースエンジニア、若手ドライバーの指導者、そしてニュルブルクリンク24時間レースドライバーと多彩に活動する土屋武士選手も、そんなひとりだ。ただ、レースガレージの息子として育ち、多くの困難も乗り越えてきた彼には、その原点であり追い求める"レースの形"があると言う。そして、その"理想"がニュルブルクリンク24時間レースにあった、と続けた。

土屋武士

「初めて見たレースは、
大人が本気で泣いたり喜んだりしている
緊張感が新鮮でした」

名メカニックの息子の初観戦は父とではなく、友人と家族のアマチュアレースの現場だった。

「僕はレースが好きです。その僕が好きなレースがニュルブルクリンクにはあったんです」と土屋武士は繰り返す。今年も土屋は蒲生尚弥、松井孝允、中山雄一を率いるドライバー陣のリーダーとしてTOYOTA GAZOO Racingからニュルブルクリンク24時間レースに挑む。
「TOYOTA GAZOO Racingは、大企業の論理からは外れた存在で、僕に言わせればプライベートチーム気質なんです。今の僕がそこに関わらせてもらったのは、本当に運がいいし、恵まれています。この年齢になって、こんなに刺激がある生活が送れるとは思いませんでした」

2018年、ニュルブルクリンク24時間レース決勝に挑む

 1970年代初頭から国内レース界を支えてきた名門レーシングガレージ、つちやエンジニアリングの創業者であり、名メカニックとして知られる土屋春雄氏の息子として神奈川県藤沢市に生まれた土屋。友人の父に筑波サーキットでのマイナーレースへ連れて行ってもらったことをきっかけにレースの魅力に目覚めた。

父・土屋春雄が立ち上げた当時の土屋エンジニアリング
まもなく2歳、ペダルカーで遊ぶ

「うちはレーシングガレージをやっていて、身近にレーシングカーがあって年中エンジンが音を立てていたんですが、レースに興味を持ったのはそのときが初めてなんです。間近で見たレースは、大人が本気で泣いたり喜んだり怒ったりしている緊張感でいっぱいで、子供心に新鮮で衝撃でした。そのうち親父と同じメカニックになりたいと思うようになったんですが、僕は元々バスケットボールとか野球とかスポーツが好きだったので、自然とレーサーの方に興味が移っていきました。高校に上がる前にバイクに乗りたいと言ったら、父は『バイクは危ないからダメだ。高校に受かったらレーシングカートならやっていい』と言うので、まず高校に入りました」

父・春雄との約束を守り進学したのち、のめり込んだレーシングカート

 事もなく言うが、土屋が合格したのは神奈川県でも指折りの進学校、県立湘南高等学校だ。しかし土屋は学業にはまったく興味をひかれず、まっすぐレーシングカートでの活動に突っ走った。
「高校にはレースをやるために入ったようなもので、学校自体は何も考えませんでした。レース以外のことには何も興味がなかったんです。今思うと、その視野の狭さ、没頭する力はひとつの才能だったのかなと思います」

2000年のJGTCで、関谷正徳と組んでカストロール・トムス・スープラを駆る

「自分で考え、自分でやらなければ、
自分の知識として残らないし、金も掛かる。
それを父から教わった」

国内最高峰カテゴリーで走るトップドライバーとして活躍。そして転機が訪れる...。

 レーシングカートをデビューウィンした土屋はFJ1600、全日本F3選手権と、順調にステップアップ。だが親や企業の支援を受けない土屋は、自分の乗るカートやマシンのエンジンオーバーホールやアライメント調整などメンテナンスを極力自分でこなしたと言う。

FJ1600に参戦している頃、20歳当時の土屋

「でも、環境には恵まれていました。家に教科書があるのと同じですから。でも恵まれていたのは『自分で考えろ』という、父親の教育方針でしたね。自分で考え、自分でやらなければ、それだけお金はかかるし自分の知識として残らない、と仕込まれたんです」

国内トップフォーミュラであるフォーミュラ・ニッポンには2000年から参戦

 土屋は、全日本選手権フォーミュラ・ニッポン(現スーパーフォーミュラ)、全日本GT選手権(現SUPER GT)を走るドライバーに成長する。しかし、結局この国内トップカテゴリーでは、何度もポールポジションを獲りながら、優勝を飾ることはできず(※)。自分の貯金まで投入してまで活動を続けたフォーミュラ・ニッポンは、2008年いっぱいで引退した。
※SUPER GT/全日本GT選手権のGT500クラスでは未勝利。GT300クラスでは7勝を挙げた。

「フォーミュラ・ニッポンは、結局自分の力が及びませんでした。勝てるチャンスはあったけど、自分のミスもありメカニックのミスもありで、天候にも裏切られたりしてしまいました。体力は30歳でピークでしたね」

2006年、フォーミュラ・ニッポンでトムスのマシンを駆る土屋

 一方、SUPER GTのGT500クラスはTEAM TOM'Sを経て、2006年からは父親が率いるつちやエンジニアリングから参戦。しかし、プライベートチームだけに景気の悪化もあって立ち行かなくなり、2008年いっぱいでチームが活動を休止した。

2008年のSUPER GT、この年いっぱいで土屋エンジニアリングは活動を休止した

「GT500もフォーミュラ・ニッポンと同じで、勝つチャンスはあったのに1回も勝てませんでした。フォーミュラの引退は体力的な面でも限界でしたが、GT500に関してはまだできると思っていたので残念でした。それ以上につちやエンジニアリングの活動が終わってしまうというのが、僕にとっては大きな問題でした。歴史を積み重ねてきたチームが一瞬で消えてしまうという現実をつきつけられ、『レース業界はこれでいいのか? これは僕の好きなレース業界ではない。このままではレースが嫌いになってしまう』と思いました」

愛弟子の松井孝允と、SUPER GT GT300クラスのチャンピオンに駆け上がった2016年

「ライバルと切磋琢磨して、
時に協力して、
そこで勝った負けたとやるのが本当のレースだと思う」

今はチームオーナー、指導者として"自分の好きだったレース"を探り続けていく。

 日本のモータースポーツ界は進化と洗練を重ね、その規模を拡大してきた。と同時に、そこに必要なコストも膨大になり、"町工場"としてレースを生業にしてきたつちやエンジニアリングだけの力では、GT500クラスのチームを維持できなくなっていた。
 そこで、土屋は自分の事業としてチームを立ち上げ、一人のドライバーとして"自分の好きだったレースの形"を探り続けた。その過程で"本当にレースが好きで情熱を持っている"若手ドライバーの育成も本格化させた。

父・春雄、愛弟子・松井孝允と喜びを分かち合う

 2015年、土屋は父親からつちやエンジニアリングを引き継いでチームオーナー兼ドライバーとしてGT300クラスを戦う。だが2年目の2016年のシーズン途中に父が病に倒れ、これを機にこの年でレギュラードライバーの活動を退くことを決めた。結果、このシーズン、土屋は教え子の松井孝允と共に、自身初のメジャータイトルであるGT300シリーズチャンピオンに輝き、有終の美を飾ったのである。
 今年、土屋はつちやエンジニアリングの代表としてSUPER GTのGT300クラスでTOYOTA 86 MCを走らせる。ドライバーは松井と佐藤公哉。2人とも土屋が成長を見守るドライバーである。

「今年のGT300ですが、開幕から2戦は決勝で雨が降ってしまいました。うちのクルマは雨に弱いので結果が出せませんでしたが、ドライなら十分戦える。しかも暑くなればさらに強さが増すと思うんです」
 2019年の第3戦鈴鹿では晴天のドライコンディションとなり、土屋の言葉通り松井と佐藤が走らせたTOYOTA 86 MCはポールポジションから快走、フィニッシュ直前までトップを守るも、終盤タイヤの消耗とマシントラブルで順位を下げて5位でゴール。今季初ポイントを手にした。このマシン、実は開幕戦岡山の強雨のレースでクラッシュして大きな損傷を負っていた。その修理費はかなりの高額で、今後の参戦すら危ぶまれたという。

つちやエンジニアリングのガレージにて

「開幕戦から帰ったら、すぐに(昨年まで)同じクルマを使っていたライバルチームから電話があって『うちのクルマを(部品取りに)好きに使って』と言ってくれたんです。本当に助かりました。こういうのが、僕の好きなレースの世界なんです。ライバルであってもお互いを尊重し合ったうえで切磋琢磨して競い合い、時に協力して、そこで勝った負けたとやるのが本当のレースだと思うんですよ」

 修復したマシンで第2戦富士の参戦には間に合った。しかし、その時点でも今季の活動予算は不足した状態で、シリーズ全戦出走の目処は立っていなかった。

つちやエンジニアリングのガレージにて

「でもいろいろな方面から支援の幅が増えて、メインスポンサーのホッピーさんをはじめ、多く方々が支援額を増してくれました。開幕戦終了直後は『この先は到底続けられない』という状態から『少し先が見えてきた』くらいまで雰囲気は変わってきました」と土屋は笑った。

レース屋として呼ばれた、ニュルブルクリンク24時間プロジェクトにて

「ニュルのチームには
僕の大好きな"昭和のレーシングチーム"の姿
があったんです」

一線を退いたドライバーがニュルブルクリンク挑戦で求められたこと、見つけたこととは?

 レーシングドライバーとしてレースの第一線から退くことを決めた2016年。土屋はTOYOTA GAZOO Racingからニュルブルクリンク24時間レースのチームに招聘され、初めてのニュルブルクリンクを走ることになった。

「僕が呼ばれたとき、『レース屋としての空気を持ってきてくれ』と言われたんです。いちドライバーとしては現役を引退しているし、普段のトレーニングもできていないから、僕を呼ぶよりももっと適任がいっぱいいたと思う。だから、僕は"レース屋"として呼ばれたんだなと思いました。エンジニアをやってドライバーもやるという人間は、今のレース界にはほとんどいないし、開発に貢献できる人材ということだったんでしょう」

 TOYOTA GAZOO Racingに加わって初めてのニュルブルクリンクに出向いた土屋は、チームの雰囲気に驚くことになった。

LEXUS LCで挑むニュルブルクリンク

「TOYOTA GAZOO Racingにとって、ニュルブルクリンクは"いいクルマづくり"の場であり、いいクルマをつくる"人を鍛える"場所です。だから基本、みんなトヨタ自動車の社員なんだけど、『これ、本当に自動車メーカーの仕事なのか?』と思うくらいでした。
 ある意味、僕の大好きな"昭和のレーシングチーム"の姿がそこにあったんです。だから、僕も楽しくてしょうがない。仕事が終わればみんなで酒を飲むし、意見は上下関係なくバンバン言い合うし、怒るし。自分で作って自分で乗る人だらけなので、一緒にいるとお酒が進むんです。乗って作ってレースする、昔ながらのレーシングチームの姿がそこにある。それが僕の好きなレースの現場なんです」

 ニュルブルクリンク24時間レースを通して、若い人材が育ちつつあることも土屋を奮い立たせる要因となっている。参戦車両のメンテナンスをする社員メカニックはサーキットで経験を積むと再び日本の職場に戻っていく。

ニュルを走り終え、エンジニアにフィードバックを伝える土屋

「できるだけたくさんの人たちに経験を積ませようということなんでしょうが、今まで2、3年スパンだったのが今年から1年スパンで入れ替わるんです。その結果、TOYOTAという世界的大自動車メーカーの中に"レース屋"がどんどん生まれていて、僕はそれが嬉しくてしようがないんです。
今年のニュルブルクリンク24時間レースは、とにかくチェッカーを受けることが目標です。僕の役目は、そこにいる全員にレースを通していろんなものを吸収してもらうこと。ドライバーとしてのプレッシャーは半端ないですけど、こんなに素晴らし環境で乗れる機会など、この年齢になるとそうそうない。それだけに、やっぱり楽しみながら若いドライバーたちにレースの楽しみ方を伝えられればなと思うんです。メカニックたちが作ってくれたクルマをゴールまでできるだけ速く"運ぶ"ことが開発につながる。楽しみはしますが、そこは妥協しないでやっていきます」