「号泣の凡ミスがもたらした希望」中山雄一 No.39 DENSO KOBELCO SARD LC500(SUPER GT)

2013年に全日本F3チャンピオンとなり、翌年から全日本スーパーフォーミュラ選手権やSUPER GTのGT300クラスで活躍してきた中山雄一選手。特にGT300ではプリウス、LEXUS RC F GT3を駆り、4年で7勝も挙げた。今シーズンは念願のGT500クラスにステップアップし、LEXUS TEAM SARDのLC500をドライブ。さらに2018年に続き、ニュルブルクリンク24時間でのクラス連覇を目指す。
各カテゴリーで結果を残してきた中山選手だが、過去にあり得ないミスを犯して『もうレースを続けられない...』という挫折も経験している。だが、そのミスはトンネルの先を照らす光をもたらした......。

2009年 フォーミュラチャレンジ・ジャパン(FCJ)に参戦した中山雄一

「何であんなミスをしたのか?
今も分かりません。
でも、あのミスがなかったら...」

2009年8月のFCJ。初日に犯したオーバーレブ。もうレースはできないと号泣した。
「あの時、僕はなぜツインリンクもてぎの5コーナーで、シフトチェンジを間違えたのか? 今も分かりません。3速から4速に入れるところを2速に入れてしまって、エンジンはオーバーレブ。普通、あんなところでミスをしません。でも、もしあのミスがなかったら、僕は今レースをしていなかったかもしれないんです」。

 中山雄一は、そう首を傾げる。それは2009年8月にツインリンクもてぎで開催されたフォーミュラチャレンジ・ジャパン(FCJ)の第6大会、土曜日で起きたミスのことだ。FTRSからFCJに参戦して2年目、中山はなかなか思うように結果を出せず苦しんでいた。ここまでクラッシュなどもあったため、年間の活動資金が尽きようとしていた。そこにこのオーバーレブだ。エンジンの修理代金は40万円。当時高校生だった中山にとって、まさに"とどめ"にも近い金額だった。

FCJで苦労していた当時を振り返る中山雄一

「それでなくとも(ここまで)結果も出ないし、『これ以上レースを続けるのは無理かも』と思っていた。そこにオーバーレブ(による修理代金)の請求書が来たので"もう終わったな"と......」
 落胆した中山は声を出して泣いた。「あんなに声を出して泣いたことなんて、なかったですよ」。当時を振り返って、そう苦笑いした。

 ところがフレッシュエンジンに積み替えた日曜日に行われた第2レース(第12戦)。走り始めると、中山は驚いた。「新しいエンジンがものすごく速かったんです。今までビリ近くを走っていたのに、いきなりセクター3以外は全部トップタイムで走れるようになった。『ああ、今までの自分はおかしくなかったんだ』と思いました」

 このレースは前日のエンジンで走った予選の結果で、12番手スタート。それがエンジンを積み替えたことで、8位まで追い上げることができた。手応えを得た中山は、次戦となる最終大会スポーツランドSUGOで2レースとも2位に入賞。シリーズランキングを4位としてシーズンを終えた。

2009年 FCJ 最終大会スポーツランドSUGOで2位に入賞した中山雄一
2010年も引き続きFCJに参戦した中山雄一は、圧倒的な成績をあげシリーズチャンピオンとなった

「小学校の担任に『やめてもいいんだぞ』と言われ、
『今さらやめられません』と言い返した」

小学4年生にして、レースに人生を掛ける決意を言葉にしていた。
 これで一旦はレースをあきらめようと思っていた心に再び火がついた。
「関谷さん(FTRS校長の関谷正徳氏)に3年目のチャンスをもらったので、両親に頼み込んでレースを続けることにしました。2年目、結果が出なくて自信をなくした僕は態度も悪くなっていて、シーズン中盤には父も母もレースに良い顔をしなくなり、これでレースは終わりというムードが漂っていました。でも2年目の最後でいいレースをして結果も出たので、もう1年チャンスをくれと頼み込んだんです。そうしたら、ちゃんとレースに取り組むんだったら、と条件をつけて支援をしてくれることになりました」

 土壇場まで追い詰められた中山は、たまたま犯したミスによって逆に自分の人生を切り開くチャンスをつかんだのだ。
 中山は東京都世田谷区下北沢に生まれ育った。6歳の時に弟ができたが、それまでは長男の一人っ子扱いでわがまま奔放に育ったという。中山自身「両親に守られて育って小心者で人見知り、内弁慶に育った」と認める。
 彼の父はモータースポーツ好きで、かつては全日本F3選手権にも出走したという。それもあって、中山自身も幼いときから自動車やモータースポーツが身近にあった。
「速いモノ、スピードが出るモノが好きだったようです。自分でスキーができない頃、父の背中に背負われて滑っていたんだけど、父がゆっくり滑ると『もっと速く滑れ』と頭を叩いて注文をつけたりしたそうです(笑)。たまたま遊園地に行ったとき、僕がゴーカートを運転したいと言い出したんだけど、年齢制限でだめでした。それが悔しくて興奮し鼻血を出してしまって。そんなに興奮するほど乗りたいならキッズカートをやらせてみようということになったんです」

レーシングカートをはじめた頃の中山雄一

 キッズカートから始まり、中山がレーシングカートにのめり込むのは自然な流れだった。全日本選手権までメカニックを務めたのは父で、ハイエースをトランスポーターに改造してレースを転戦する生活が始まった。
 小学校4年生のとき、中山は小学校の担任に呼ばれて、こう声をかけられたという。「もしカートをやる生活がつらいなら、カートを止めてもいいんだぞ。先生が両親にそう言ってあげる」と。
「先生には僕がつらそうに見えたんでしょう。土日はレースで友だちと遊べないし、母は僕の体調管理に厳しかったので、友だちの家で食事を共にすることもほとんどなかった。そういうところを見ていたのかもしれません。でも自分は全然つらくなかった。だから、『もう、人生の半分をカートで過ごしてきたんだから今さらやめられません』と答えましたよ(笑)」

 レースの現場を支えたのは父であったが、精神的な面では母の影響も強かったという。「母が厳しくて、父がそれを止めるという役割分担でした。僕がまじめに取り組まなかったら、母が『カートなんかすぐ止めろ!』とレーシングスーツやヘルメットを捨ててしまうんです。それを拾ってきて謝りました。母にはよく『走っていてオーラがない!』と叱られましたね。ぼくがどれだけ真剣にレースをやっているかということを外から観ていたんだと思います。でも同時に心配もしていたようです。実は弟が大学でラグビーをやっていますが、あれも危険なスポーツなので『わたしはきっと心臓病で死にます』と言っていますよ(苦笑)」

 両親に支えられてレーシングカートで実績を積んだ中山。ヤマハのワークスチームで活躍し、フォーミュラカーレースへのステップアップを目指してFTRSを受講。2年目の挑戦で合格すると2008年、満16歳で限定Aライセンスを取得してFCJで4輪レースデビューを果たした。
「フォーミュラカーを走らせるのは大変でした。いきなり車重が5倍、速度域が2倍になって思うように動かせず、何かやればクルマがどこかへ飛んで行ってしまうような気がしました。そのうちタイムも出るようにはなったんですが、走り慣れないコースでは全然ダメで苦労しました」
 結局納得のいかないまま2年目のシーズンも終わろうとしていた。中山は半ばレース生活の続行をあきらめかけていた。そんなとき、ツインリンクもてぎの5コーナーでシフトミスを犯すのだ。
 運命というものは不可思議なものだ。結局そのミスをきっかけに中山は自信を取り戻し、2010年に3年目のFCJに参戦すると圧倒的な成績をあげシリーズチャンピオンとなった。
 こうして中山は2011年にF3Nクラスへステップアップ、2012年には全日本F3の名門チームであるトムスから出走した。しかし、F3でも中山は大きな壁に向かうことになる。

2012年 第4大会で平川亮選手に一歩及ばず2位入賞した中山雄一

「後輩の平川選手に負けちゃって、
劣等感のかたまりになってしまいました」

自分の走り方を見直し、立ち直ったF3時代。ついにはチャンピオンを獲得した。
「(車両やスタッフがくじ引きで変わる)FCJはひとつのチームという感じではなかったので、F3が僕にとって初めてプロのチームで戦うレースでした。でもトムスは本当に厳しいチームで、うまくいかなくても慰めてくれる人が誰もいなかった(苦笑)。ほんとノイローゼになりそうなくらいつらかった。しかも、後輩でルーキーの平川亮選手に負けちゃって(全15戦の10戦までは平川が7勝、中山は1勝)、劣等感のかたまりになってしまいました」

 当時中山は大学を休学して御殿場に住み、ガソリンスタンドでアルバイトをしながらレースする生活を送っていた。思うように結果が出せず悶々とする日々、気晴らしに出かけたのは小学校の時から好きだったゴルフの打ちっ放し練習場だったという。
「でも時給800円ちょっとのバイト生活でしたから、1球10円のボールはなかなか打てないんです。高校で入っていたゴルフ部時代は1球1円でしたから思う存分練習もできたんですが」と苦笑する。

全日本F3に名門TOM'Sから参戦した中山雄一

 だが中山は自分に何が足りないのかを考え抜き、それまでこだわっていたフロントタイヤに荷重を掛ける走り方を、リアへの荷重に切り替えて自分の流れをつかんだ。
「カートの先輩にあたる国本雄資選手に自分のクルマを乗ってもらい、意見を聞いて自分の走り方を確かめたんです。すると、シーズン後半は平川選手にも勝てるようになりました」
 中山は翌2013年、シーズン11勝を上げてF3のシリーズチャンピオンになり、国内トップフォーミュラであるスーパーフォーミュラへのステップアップ。トップドライバーとして、3シーズンを戦った。

2014年 国内トップフォーミュラであるスーパーフォーミュラへのステップアップし、KCMG Elyse SF14をドライブした中山雄一
2018年 SUPER GT 第3戦 鈴鹿で、K-tunes RC F GT3 96号車に乗り、GT300クラスを初ポールからの初優勝を果たす

「GT500ルーキーの今年。
すべてが勉強になると思うので楽しみです」

GT300クラスで実績を積み上げ、2019年はチャンピオンチームからGT500へ参戦が決まる。
 今年、中山はLEXUS TEAM SARDのレギュラードライバーに抜擢され、SUPER GTのGT500クラスに参戦することになった。GT300クラスでは昨年までの4シーズンをプリウス、LEXUS RC F GT3で戦い、7勝を挙げる活躍を見せただけに、2016年のチャンピオンである名門チームでの活躍が期待される。そして、昨年に続いてニュルブルクリンク24時間耐久レースにLEXUS LCでSP-PROクラス(予定)にも参戦。2年連続の優勝と共に"もっといいクルマづくり"への貢献も担っていく。

中山雄一は2018年ニュルブルクリンク24時間耐久レースに参戦した

「今までトヨタの育成ドライバーとして育てていただいてきましたが、昨年のニュルブルクリンク24時間参戦に続き、今年はTGRドライバーとしてGT500クラスも戦います。これで"仕事"でトヨタに恩返しできるようになったという達成感があります。とはいえ、僕はGT500ルーキーに過ぎません。今年のパートナーは、かつてF1で優勝もしているヘイキ・コバライネン選手。今まで海外のトップドライバーと同じクルマをシェアしたことはないので、彼がどうやってクルマをセットアップしていくのか、どうやって走らせるのか、すべて勉強になると思うので楽しみです」
 あの日やってしまった凡ミスが、中山の運命を変えた。あれから10年。中山は自分の力で未来を切り開こうと歩み出した。

2018年 ニュルブルクリンク24時間耐久レースに参戦した中山雄一