86GRMN

TOYOTA GAZOO Racingが満を持して送り出すコンプリートモデル、86GRMN。 わずか100台の限定生産となるスペシャルな86は、何を目指して生まれ、ドライバーにどんな体験をもたらすのか。開発の舞台裏に迫る。

86を尖らせるべく集まった“クルマ屋”たち

86GRMNの赤いスタートスイッチを押す。アクセルを軽く煽ると、精密感のあるハイトーンが響く。ノーマルの86とは別次元のクルマであることが伝わってくる。
「素の86も非常に楽しいクルマです。ただしスポーツカーとは言え、大勢のお客様をターゲットにする以上、どうしても一般解を求めなければならない部分も出てきます。でも、ターゲットになるお客様を絞って開発すれば、86のポテンシャルは、もっと尖らせられる。」
こう語るのは、86GRMNの開発責任者、野々村真人。WEC(FIA世界耐久選手権)に参戦したTS030 HYBRIDの開発に携わっていたエンジニアだ。 2012年、GAZOO Racingチームの86がニュルブルクリンク24時間レースでクラス優勝。この頃86GRMNの開発計画が浮上し、翌年、野々村に白羽の矢が立った。野々村の目に、ニュルの挑戦はどう映ったのだろう。
野々村「クルマづくりは複雑。電技、シャシー、ボディとか、それぞれの専門家がいます。その一方でクルマ全体を見ることができる人は少なくなってきている。その点レースは小さな集団。エンジニアも、メカニックも、自分の領域だけではなくて、クルマ全体を知っていなければならない。WECにしても、TOYOTA GAZOO Racing がやっているニュルの活動にしても、目指すものは一緒だと思いましたね。」
86GRMNの開発チームは、わずか20名ほどの“超”少数精鋭体制。そこでは一人一人が全体を見渡す“クルマ屋”であることが求められた。まずはこの意識改革が欠かせなかったと野々村は言う。

開発責任者
スポーツ車両統括部
野々村 真人
市販車のシャシー設計、WECに参戦したTS030HYBRIDの開発を経て、2013年から86GRMNの開発責任者を務める。

レーシングカーの楽しさを再現したい

86GRMNが目指したものとは何か。その問いに答えてくれたのが、ニュルブルクリンクを知り尽くしたテストドライバーである大阪晃弘だ。プライベートでも86オーナーでもある大阪は、今回の86GRMNについて「思い描いてきた理想の姿を体現した“究極の86”」だという。TOYOTA 86の開発段階から走りの評価に携わってきた大阪は、このクルマを知り尽くした人物の一人だ。
大阪「レーシングカーの86には色んな方に乗ってもらいましたが、非常に評価が高かったんです。レーシングカーで味わえる“あの感じ”を、なんとか市販車につなげられないかというのが、今回のGRMNのコンセプトになったと思います。もうひとつは、普段から86に乗っていて感じる“もっとこうしたい”という部分に手を入れたかった。その2つの思いで開発してきましたね。」
レーシングカーのエッセンスを市販車にフィードバックし、同時に86の走りをさらに高次元へと引き上げる。開発チームが最初にメスを入れたのがボディだった。その際に目標値としたのが、レーシングカーに匹敵するほどのボディ剛性だ。86GRMNのボディは、ノーマルの86に対し、ねじり剛性比で約1.8倍まで高められることになったが、クルマの「味」にこだわるGRMNの場合、単に数値目標を達成するだけではなく、前後の剛性バランスにこだわった。サーキットレベルの走行において、リヤタイヤは常に駆動力を路面に伝え続けるだけでなく、持てるコーナリングパワーを最大限に発揮しなければならない。そのためには強靱な土台が必要だ。そこで前後アンダーフロアへの補強ブレースに加え、トランクルームへの補強ブレース、トランク開口部の金属パネルによる補強など、特にリヤまわりには重点的な剛性アップが実施されることになった。
一方で「何を、どこに、どう用いれば最も効果的か」という最適解も、官能評価を繰り返しながら現地現物で見いだしていった。最新の減衰機構付パフォーマンスロッドはリヤだけに採用されているが、フロントにも入れて試したところ、ステアリングを切った際にノーズが素直に切り込んでいく感覚が微妙に損なわれたのだそうだ。また、ブッシュをピロボール化することで効果が得られる箇所、逆に乗り味を損なう箇所を綿密に検討した結果、最適解が「リヤコントロールアームブッシュのピロボール化」だったと言う。全ては実際の走り込みを重ね、理想的な剛性バランスを追求する中で造り込まれていったのである。

凄腕技能養成部 NチームG 大阪 晃弘 「自分がこうあって欲しいと思っていた、現時点で究極の86にできた。86ユーザーでもある自分がそう思えるクルマです。」

“あの気持ち良さ”を、どこまで再現できるか

エンジンについても、レーシングカーが持つ「気持ちの良さ」をフィードバックすべく、徹底的にメスが入れられた。その際に86GRMN開発陣が何より重視したのは、絶対的なパワーアップではない。アクセルペダルのわずかな動きでパワーを自在にコントロールできるレスポンスという要素である。こうして、軽量ピストン、低張力ピストンリングの採用などエンジン本体のチューニングに加え、抵抗低減ストレートエアインレット、回転数に応じてロングポート/ショートポートの切り替えを行う可変インテークマニホールド、排気干渉を低減した完全等長エキゾーストマニホールドなどが専用に開発されることになった。エンジン内部の慣性重量や摩擦低減に加え、吸・排気抵抗の低減を徹底追求することで、86GRMNは、ノーマルエンジンとは全くの別モノとも言えるレスポンスを手に入れることになったのだ。加えて、開発陣が心血を注いだのがエンジンサウンドだ。商品実験部の柘植晴夫は、理想のサウンドを手に入れるまでの苦労を次のように振り返ってくれた。
柘植「音には非常にこだわっていたものですから、インマニやエキマニなどの部品を微妙に変えながら何度もテストを重ねたと思います。街乗りでの静粛性とスポーツ走行時の刺激的な音を、何としてでも両立したかったので、相当苦労した部分です。」
このテストでは、部品の組み合わせを変える度に、柘植たちはシビアな試験条件をテストコース上で繰り返し再現しなければならなかった。
柘植「エアコンOFFという条件の下、夏から秋にかけて汗だくになりながら走っていましたけど、それでも“いい音”を出したいという強い気持ちがありましたね。苦労の甲斐があって、お客様に“アクセルを踏んでみてください”と自信を持って言える音ができたと思っています。」

商品実験部 第1車両試験課 商品力試験係 柘植 晴夫 「ニュルで走っていたクルマに、自分も含めた一般のユーザーが乗れるということ。それが一番の達成感ですね。」

レース活動と並行して進められた開発

ニュルでのレース活動と並行して行われた開発の中で、86GRMNで得た知見はレーシングカーにも活かされ、実戦でのパフォーマンス向上につながっていった。その一例が空力性能だ。高度な知見に裏付けされた開発リソースが利用できるのは、メーカーならではの強みでもある。86GRMNの空力性能開発は、CFD(流体解析)に加えて風洞試験を繰り返し行いながら進められた。まるでレーシングカーのようなリヤスポイラーは市販車としてはオーバースペックのようにも見えるが、野々村は次のように答えてくれた。
野々村「ダウンフォースはどれだけあってもいい。ただし前後バランスは重要です。リヤにあれだけ大きなものをつけられたのは、フロントのダウンフォースがしっかり出ているからです。」
ニュルブルクリンク24時間レース参戦車両の86は、2013年クラス2位に留まる。ドライバーからは、フロントのダウンフォース不足が指摘されていた。こうした課題を受けてレーシングカーにも移植されたのが、86GRMNのために開発されていたフロントエアロパーツだ。2014年、86は再びクラス優勝を奪還した。また、野々村が「レース活動があったからこそ実現できた」と語るのが、ブリヂストンとともに開発した専用タイヤだ。きっかけは開発初期の86GRMNに、ニュルに参戦しているレーシングカー用のスリックタイヤを履かせて走った際の驚きだったと言う。
野々村「クルマがべたっと路面に張り付くようなグリップ感があって、減衰感も出ていて乗り心地もいいんです。ブリヂストンさんと議論しながら、スリックタイヤの良さをフィードバックさせた専用タイヤを一緒に開発してくことに。今ではRE-71Rは市販されていますが、215/40R17、235/40R17というサイズについては、内部構造から86GRMNのために最適化されています。」
このタイヤの性能を使い切るべく開発されたのがブレーキだ。大径のドリルドディスクを採用、放熱性能を高め、フロントに6ポッド、リヤに4ポッドの対向モノブロックキャリパー、パッドにはあえてノーマルと同スペックのブレーキパッドが組み合わせられた。
野々村「ノーマルのパッドはコントロール性がいいので、ちゃんとタイヤの限界を感じながら楽にブレーキが踏める。冷却をしっかりやって温度を適正に保てたので、コントロール性がいいノーマルのパッドが使えたんです。 」

ニュルをいつまでも走っていたくなるクルマ

しなやかに路面の起伏をいなし、常に4輪が路面に貼り付いているかのような感覚。コーナリング中でも、さらにアクセルを踏み込んでいける余裕。初めて86GRMNを走らせるドライバーは、あたかも自分の運転が上手くなったように感じるに違いない。ニュルブルクリンクでのラップタイムを売り物にするクルマは多いが、86GRMNが目指したのは、それとは異なる次元だ。
野々村「ニュルは、クルマが非常に厳しい環境に置かれる場所。路面がうねりながら左右の横Gが入ってきたりする状況でも上手くボディコントロールができるクルマにすれば、乗り心地も良く、気持ちよく走れるんです。どれだけボディを動かさずに、タイヤを接地させ続けられるか。この考え方は市販車でもレーシングカーでも一緒ですね。」
86GRMNのしなやかな足まわりには、軽量なカーボン(CFRP)製ルーフや樹脂ウィンドウの採用も貢献している。車高を無闇に下げることなく低重心化が実現できたことで、十分なサスペンションストロークが確保されているのである。もともとのTOYOTA 86は、FRらしいハンドリングを追求して誕生したクルマだが、86GRMNが手に入れたのは、いかなる状況でも狙ったラインを正確にトレースできる、オンザレール感覚の走りだ。
柘植「先日、レーシングドライバーの影山さんに、この86GRMNに乗ってもらい、ノーマルの86との最大の違いはリヤのグリップ性だと言われていました。影山さんですらリヤを流すのは難しいと言われるほどスタビリティが高いんです。」
絶大なリヤスタビリティを含めた「4輪の接地感」に徹底的にこだわり、GRMNシリーズで走りの味付けを担った勝又義信は86GRMNが目指した走りについて、こう語った。
勝又「FRであっても、狙ったのは4輪駆動の接地感 です。タイヤの限界も含めて、いかにドライバーにインフォメ—ションを瞬時に伝えられるか。そうすればドライバーは、さらに次へ、次へ、という操作ができる。 “もっと、もっと走っていたい”と思わせる、そういうクルマに仕上げることができましたね。」

勝又 義信 GRMN シリーズで走りの味付けを担う。2012 年のニュルブルクリンク24時間レースではGAZOO Racing 86のドライバーも務めた。

レースを知り尽くしたメーカーとのコラボレーション

先に紹介した専用タイヤの他にも、協力メーカーとの共同開発から生まれたアイテムがある。86GRMNのために専用開発されたレカロ製シートがそれだ。骨格そのものは既存のレカロ製品を踏襲しているが、着座姿勢やホールド性について念入りなチューニングが繰り返された。商品実験部の小山昌也は、そのこだわりの一端を教えてくれた。
小山「シートは座面の角度、面圧分布についても標準のレカロとは別のものになっています。狙ったのは、けっしてガチガチに締め付けるようなシートではないんです。このクルマを買っていただける方は、きっと相当なマニアだとは思いますが、そういう方が普段使いする上でも許容できるものにしなければいけない。その限界はどこだろうという議論を何度もしましたね。」
中でも意見が割れたのが、ランバー部分のシェイプだ。レカロ側が提案した形状は、初期品質ではやや固さを感じさせるものだった。この点についてはGRMNの味付けを司る勝又も当初は否定的だったと言う。しかしレカロ側は、徐々になじむことで最適な性能が出るよう考慮していると主張して譲らない。実際に走り込んでみた結果は、まさにレカロ側の言う通りのものだった。
野々村「やはり、思想を持っているメーカーさんと一緒に仕事ができたのは面白かったですね。我々からの指摘に対して、それをそのまま形にするのではなくて、専門メーカーなりの解釈をして、独自の解を持ってきてくれる。だからこそ、いい結果が生まれたと思います。」
86GRMNでは、室内の随所にイタリア製のアルカンターラ®表皮が用いられている。これも、ドライバーが肌で感じる繊細な触感へのこだわりから選ばれたアイテムだ。一方で視覚的な要素では、ドライビングに集中できるよう、室内の金属調メッキが極力廃されていることが分かるだろう。レッド&ブラックの2トーンで統一されたインテリアは、走りを純粋に楽しむためにデザインされたものだ。

商品実験部 第1車両試験課 商品力試験係 小山 昌也 「86GRMNは、自分が思った通りに動いてくれる。自分ならこうしたいということを、すべてやれたクルマです。」

未来を見据えた「トヨタ製86」へのこだわり

トヨタとスバルとの共同開発から生まれたTOYOTA 86の生産はBRZとともにスバルの工場で行われている。ところが86GRMNは、この枠組みすら変えてしまった。まずはエンジン。スバルで生産されたノーマルモデルのエンジンはトヨタテクノクラフトでリビルドされ、86GRMN専用チューンのエンジンに生まれ変わる。
野々村「トヨタテクノクラフトには、SUPER GTやフォーミュラ・ニッポンなどのレーシングカーの組み付けとか、エンジンを手組みで造り上げるノウハウがあります。」
一方、スバルから出荷されたホワイトボディはトヨタ元町工場に運ばれ、以降の全ての組み立ては、かつてLFAを手がけた匠の工房で行われる。通常のラインでは多くのスタッフが流れ作業の中で各自の作業を担当するが、86GRMNの生産では少数精鋭のスタッフが一貫して担当し、全ての工程で精度にこだわりを持って組み立てが行われる。この特別体制が実現した背景には、開発責任者である野々村の並々ならぬ熱意と努力がある。
野々村「トヨタは大量生産が得意ですが、LFAという特別なクルマを手組みで少量生産することで、より楽しいクルマを生み出せることに気づいたと思うんです。それを継続させたいというのは、みんなの思いでもあります。86GRMNはトヨタで開発して、トヨタで生産することを決めました。ニュルという厳しい道があるからクルマは鍛えられます。でも、トヨタで生産するということについては、ニュル以上の厳しい道があったと思っています。」
車検証に記載される86GRMNの型式番号は「GRMN86-FRSPORT」。それは、ここで生産された86GRMNの証でもある。ニュルがクルマの走りを鍛える聖地であるように、トヨタ元町工場を少量生産車や特別なスポーツカーを生み出す聖地にしたい、野々村はそんな思いを抱いているとも語ってくれた。86GRMNの生産をトヨタで行うという決断は、未来に向けた夢の計画の始まりかも知れないのだ。