「あれ? 左足でブレーキペダルを踏むのですね」
先日とあるサーキットイベントで、レクサスLFAの同乗体験ドライバーをしていた時のこと、パッセンジャーシートで僕の運転を食い入るように観察していたお客様がそう驚かれた。
「レーシングドライバーの皆様は、左足ブレーキなんですか?」
「最近の主流は左足ブレーキですね」
「それにも流行がある?」
「技術の変革にあわせると左足ブレーキのほうがメリットがあるから…」
相当にドライビングに観察眼があるようで、操作方法に対して熱心に質問された。
「公道でも左足ブレーキですか?」
「僕は両刀です。サーキットでも公道でも…」
で、どちらかでなければならないという回答はない。だがキノシタは、左足ブレーキのメリットが、右足ブレーキの優位性を上回ると思っているのだ。特にサーキットでは、左足ブレーキが圧倒的に有効である。
かくいうキノシタも、多くのベテランドライバーがそうであったように、かつては右足で操作していた。左足ブレーキに改めたのはほんの数年前のことである。
左足ブレーキの優位性は少なくない。
まず、ペダルの踏み替えがない分だけ、タイム短縮につながる。アクセルペダルを床踏みしたままブレーキングポイントに差し掛かる。ここぞと思ったポイントでブレーキング開始。右足をアクセルペダルからブレーキペダルに踏み替えるまでの時間的なロスが短縮されるのだ。
一般的にはほんのわずかな時間かもしれないけれど、コンマ1秒にこだわるモーターレーシングの世界では、貴重な時間なのである。
コーナリング中の挙動変化に活用しやすいのも利点であろう。
限界コーナリング中に、アクセルコントロールすることは頻繁だ。エンジンパワーを出し入れすることで、マシンの挙動を整えることはいつものこと。
その時、パワーの出し入れに加えて、ブレーキによる制動も有効なのだ。チョンとブレーキペダルに足をあてて、アンダーステアを抑えたりテールをリバースさせたり…といったことが素早く的確にこなせるのだ。
右足でも不可能ではないけれど、踏み替え時間がかかり、やはりロスをうむ。左右の足をアクセルペダルとブレーキペダルにそれぞれ専念させる方がメリットがあるのだ。
ターボエンジンの場合、さらにそのメリットは際立つ。アクセルペダルを踏み込むことで初めて過給が開始されるターボは、レスポンスに遅れが残る。それを補うために、なるべく早くスロットルオンをしたい。つまり、左足ブレーキならば、それこそブレーキング時にすでに、加速のためのスロットルオンに転じることが可能になるのだ。
といったように、左足ブレーキの恩恵は少なくないのである。
僕がモータースポーツの世界に足を踏み入れた時には左足ブレーキなどという概念はなかった。ごく限られたカートの世界だけの特殊な操作だったのだ。誰もが疑いもなく右足でブレーキペダルをコントロールしていたのである。
一方で、こんな基本テクニックが存在した。右足でブレーキペダルを踏みながら、器用に足首を捻って「ヒール&トー」なる小技を駆使していた。それがひとつの腕の見せ所だったのだ。
ダブルクラッチなどという、もはや死語になったテクニックもあった。
最近の若いドライバーは初めて耳にする言葉かもしれないが、というより、キノシタが若い頃にもすでに淘汰されつつあったテクニックなのだが、シフトチェンジをする際、ギアからギアへ移す間に、一旦ニュートラルを挟む必要があった。その際、いちいちクラッチをつなげなければならなかったのだ。ギアチャンジのたびにクラッチを二度踏む。だからダブルクラッチなのである。
とまあ、こんな操作が必要だったのは、ミッションの耐久性が低かったからだろうし、そもそもそうしなければギアが入らなかったからなのだ。しかたなく左足はクラッチ操作に奪われていたというべきだろう。左足ブレーキどころではなかったのだ。
だが最近は、技術が進歩した。ダブルクラッチなど駆使する必要はない。シフトレバーをコキコキすれば、多少エンジン回転とズレていたってストレスなく変速が完了する。
そもそもクラッチのあるクルマが少なくなった。日本では9割のクルマがオートマチックという時代である。マニュアルミッションのスポーツカーでさえ、2ペダルが主流である。だったら右足はアクセルペダルに、左足はブレーキペダルに専念させるのは時代の要請なのである。
スーパーGTのような、クラッチペダルの存在するレーシングカーでさえ、左足ブレーキは主流である。クラッチペダルを踏み込むのは発進と停止する時のみ。走行中は、クラッチ操作から解放される。
たとえば加速中、右足はアクセルペダルを床まで踏み込んでいる。そしてシフトアップ。シフトレバー、もしくはステアリングに備え付けられているシフトパドルに力を込めればエンジンコンピューターが瞬間的にパワーを絞る。すると自然に、吸い込まれるようにギアが移り変わるのだ。だからアクセルは常に全開のまま、左足でクラッチペダルなど踏み込まずとも最速で走れるのである。
そもそもドグミッションという機構が、クラッチペダルの必要をなくしてしまった。ギアとギアをいわば強引に入れ替えても、トラブルもなく変速可能なのだ。だからシフトダウンさえ、ヒール&トーでエンジン回転をあわせることなく、減速が可能なのだ。
カートあがりのドライバーが増えたことも、左足ブレーキ普及の要因だろう。彼らは幼少の頃から、左足でブレーキ操作を続けてきたのである。
サーキットでなくとも、左足ブレーキは有効だと思う。
市街地の路地裏をトロトロと走るような時、子供の飛び出しの心配があるような細道では、左足ブレーキのほうが安心である。
車庫入れなどで段差を乗り越えるような時も、左足でブレーキに軽く力を加えたままアクセル操作するとスムーズである。といったように、公道でもメリットはあるのだ。
だが、公的機関はいまだに「ブレーキペダルは右足で操作することが望ましい…」としている。法的に違反だとされてはいないのだが、不思議なことに推奨はされていないのだ。したがって、運転教習所でも、教えるのは右足ブレーキである。
理由はこうだ。右足ブレーキに慣れ親しんだ人が左足ブレーキに代えると踏み替え事故が起こるかもしれないと。フットレストに左足を乗せて体を支えることが正しい運転姿勢につながるとも。それが右足ブレーキを推奨する理由らしい。
だったら、最初から左足ブレーキに慣れればクリアできるし、ホールドのいいシートならばOKなのかとツッコミどころ満載である。ともあれ、公的にはいまだに右足ブレーキ推奨スタイルを崩そうとしていないのが現状だ。
1990年代、世界的に2リッターのツーリングカーレースが流行した。ヨーロッパのETCC、日本のJTCCがそれ。マシンは日産プリメーラだったりBMW320だったり、トヨタ・カローラだったり。各国でシリーズ戦が展開されており、それが世界のメジャーツーリングカーレースだった時代がある。
その時代にキノシタはブラジル・ツーリングカー仕様のプリメーラの開発ドライバーを担当していたことがある。そのマシンのペダル配置が奇妙だった。クラッチ付きの3ペダルなのだが、右から順に、アクセル→クラッチ→ブレーキ…なのである。本来中央にあるはずのブレーキペダルが左隅に移されている。クラッチペダルは中央なのだ。
その理由は、レース中、左足ブレーキを多用したいからである。発進、もしくは停止する時だけにしか必要ないクラッチペダルは中央に追いやられ、左足はフットレストからもっとも近い左側に寄せられたのだ。そう、すでにブラジルでは左足ブレーキが主流になりつつあったのだ。
いまから将来のレーシングドライバーを夢見るのならば、左足ブレーキは必須だろう。
ここ数年になって、キノシタも左足ブレーキにスイッチした。
「いまから左足ブレーキを習得するの?」
友人ドライバーはそう言って笑った。
「だって、数年後には左足ブレーキが使えなければ戦えないだろうから…」
「いつまで走る気?」
「あと20年!」
昨年になってようやく、右足ブレーキより左足ブレーキの方が速くなった。