灼熱のレースで火照った肉体を、自宅のプールで醒す。
体にまとわりついているシャンパンファイトの甘い香りも、さっぱりと流した。
背後からそっとバスローブをかけてくれる女は、大富豪の娘。
だが、ただのパトロンでしかない…。
金のためならベッドでひとつにでもなる…。
大藪春彦が1969年に上梓した長編小説「汚れた英雄」は1982年に角川映画によって公開された。天才的な才能を持つ主人公の「北野晶夫」は、日本人離れした美貌と肉体を武器にのし上がっていく。草刈正雄が演じた。過去に傷を持つ天才ライダーが、資金力の優るワークスライダーに戦いを挑む。それがこの映画のストーリーだ。
北野晶夫の私生活は、いわゆる世間一般がイメージする憧れのレーサー像を絵に描いたものだ。全日本レースで勝利し海外遠征をし、超豪華な家にひとりで過ごす。豪奢な屋敷で催されるパーティーでは、タキシード姿の彼に美女がすり寄ってくる。
一夜限りの情事を楽しんだ体を、自宅のプールで癒す。クローゼットには夥しい数の衣装が用意してあり、その中の1着をまといアルピナで空港へ…。
映画が公開されたのは1982年。それまで右肩あがりで突き進んできた日本経済は突然その角度を変え、バブルに向かって急上昇しはじめた頃。バブル経済の発端となったプラザ合意が1985年だから、まさに世間が泡に溺れようとしている時期と重なる。
レーサー=命知らず=高額な契約金=華やかな世界=美男美女…という公式は、あながち間違いではなかった。脚本家がイメージをたよりに大袈裟な脚色を加えたつもりでも、それがすんなり現実だったりしたから、バブル時代のレース界は恐ろしい。
原作のモデルとなったのは、当時ヤマハのワークスライダーとして活躍した伊藤史朗だと言われている。天才ライダーとして君臨し、のちに日産ワークス入りして活躍した北野元とする説も信憑性が高い。北野さんとは何度か話をしたことがあるけれど、孤独な男特有のニヒルなオーラが漂っていて、将来を夢見る若造だった僕も憧れたほどだ。
実際に、僕らがレースをする以前の高度成長期時代、レーサーは有名女優と多くの浮き名を流した。今よりももっとレーサーという存在は非現実な世界に生きていたのだ。
ポルシェを転がし、銀座で豪遊し、女優と一夜を過ごすなどという浮き世の世界が現実だったのだ。
北野晶夫を演じる草刈正雄は、当時のトップモデルであり二枚目俳優。その日本人離れした容姿は、当時では目立っていた。いまほどハーフが一般に浸透していない時代である。のちに資生堂のコマーシャルなどで活躍して今に至る。彼がとことん二枚目スターライダー像を演じるのだから、男性は素直に憧れ、女性は体の芯からとろけたことだろう。
たとえば映画のシーンをベタベタに表現すればこんな感じ…。
★
北野晶夫が、自宅の地下にある25m級プールで泳ぐ。もちろん全裸だ。
プールサイドには、ヤマハGPマシンが飾ってある。
全裸のままのスイミングで汗を流した北野晶夫がリビングに戻り、ライムを力強く握りつぶし、果汁の降り注いだペリエを一気に飲み干す。
電動扉のワードローブを開けるとそこはブティックと見紛うばかりに夥しい数の衣装が吊り下げてある。
「さあ、今夜のパーティーには、どれを着ていこうか…」
ハンガーワークは電動で回転する。
その中の1着を手にとり、身に纏う…。
★
宮殿のような巨大な屋敷の中庭で催されたパーティーでは、政財界、あるいは成功を手にした芸能人が談笑している。その中でも北野晶夫は特別な存在感を放っている。
カクテルを手にする北野晶夫に、飛び切りの美女が歩み寄り、パトロンを申し出る…。
まあその晩も、億を超える大金のめどがついた…。
★
彼女がひとり寂しく食事をしている。
巨大なダイニングテーブルの回りには、サーブをする給仕達だけだ。
そこに一輪のバラの花が届けられる。
「なにかしら…?」
そのバラは一輪だけに留まらなかった。スーツ姿のフローリストが一輪一輪を丁寧に運び込む。やがてそれは彼女だけの空間を残して部屋を埋め尽くした…。
いやはや、現役でレース界に身を置く僕が今観ても興奮する。TSUTAYAでレンタルして二度観したあと、保存盤として購入してしまったほどである。
そんな興奮した話でお兄ぃ(影山正彦)と盛り上がった。
お兄ぃと僕は、レース界ではほぼ同期生として育った。年令は彼のほうが2歳下なのだが、レースの世界に足を踏み入れたのは彼が先。その後、日産ドライバーとして同じ道を歩み育った。かつてのバブル時代を経験した希少なドライバーでもあるのだ。たしかに僕らはバブル時のレース界で育った。
そんなお兄ぃとの会話。
影山「あの映画にはシビレましたね…」
木下「憧れたよ。あの映画を観てレーサーになろうって決心したからね」
影山「オレ、その頃もうレースはじめていて、当時、先輩のレーサーに聞いたんですよ」
木下「なんて聞いた?」
影山「レーサーって、あんな裕福で、マブイ女優と付き合えるんですか?って…」
木下「したら…?」
影山「『バーカ、そんなのありえね~し』って頭ひっぱたかれましたよ(笑)」
影山「そう言われても、憧れましたね。肩のいかったタブルのスーツ着て六本木に行ったし」
木下「巨大な携帯電話を抱えて寿司屋のカウンターにこれ見よがしに置いたりしてね」
影山「おまえは自衛隊の通信兵か!みたいな…(笑)」
木下「汚れた英雄の実態は、もっと平凡?」
影山「でも、映画を観てその気になったレーサーがいっぱいいましたね」
木下「その気になっちゃう奴?」
影山「ヤクザ映画観たあと、肩で風切って歩く奴みたいな…」
木下「どんな奴?」
影山「かぶれた英雄…!」
(大爆笑)