僕らの命を守るためのレーシングスーツ
入学式の当日を迎える気分です
入学式を控えた学童が、新しい制服に胸躍らせるのが僕らにはわかる。桜を待ちわびるこの季節は、人の心をワクワクドキドキさせるらしい。
我々レーシングドライバーにとっての制服、つまり新デザインのレーシングスーツが届いた日は、新入学に胸をときめかせる子供達のような気持ちである。
新しいチームに参画することの不安と期待、新規スポンサーとの出逢いと責任、なによりも、今年もこうして新しいレーシングスーツに身を包むことができる。そんな喜びは格別だ。チャンスを導いてくれた関係者へ、深く感謝したくなるのである。
ただし、レーシングスーツメーカーは、おそらく不眠不休の繁忙期を迎えているに違いない。ヘルメットとレーシングスーツのオーダーが、モータースポーツシーズン開幕戦直前に重なるのは、スケジュールを考えれば道理。
もう少し早めにオーダーしてやれればいいのだとは思うけれど、スポンサーやドライバーが決定するのが年を跨ぐことも少なくない。それからデザインを起こして、諸々を取りまとめてレーシングスーツメーカーに発注するのは、たいがい開幕戦直前になる。深夜まで工場の電気を灯させているのは、我々なのである。大変申し訳ない…。
僕がこのところ愛用しているのは、グループ・エム・レーシングである。スパルコのお世話になることもある。たいがいドライバーは、あるいはチームは御用達のスーツメーカーがあるものだ。自分の体型を採寸したデータが保存されているから、作業が迅速だ。という理由もあるけれど、スーツにはスーツの特徴があるから、ドライブしやすく体型にあった好みのメーカーとの付き合いが深くなる。
今年もグループ・エム・レーシングと、新しいスーツの関して無理難題をお願いしている。
斬新なスーツをデザインしている中で…
そんな中で、レーシングスーツには厳しい制約があることを深く知ることとなった。「レクサス×GQ」で企画中のバーチャルレーシングチームの中で、一流ファッションデザイナーである相澤陽介さんにレーシングスーツをデザインしてもらおうということになった。レース界ズブズブではないデザイナーの斬新な発想に委ねようと思ったのだ。
僕からデザイナーへの要求はひとつ。
「誰も想像したこともない発想でデザインしてほしい…」。
かなりの無理難題なのだが、さすが柔軟なセンスの持ち主だけあり、僕らの発想を100倍超えた素敵なデザイン案が上がった。
ドライバーが戦いに挑む精神を、マオリ族が相手を威嚇する舞踏にイメージを重ね合わせてくれた。彼らの体に、甲冑のように刻まれたタトゥーを発想の源泉としてくれたのだ。
まずは燃えないことが基本だ
だが、話を進めていくうちに、厳しい規制という壁に当たった。スーツメーカーと折衝しているうちにいろいろな制約が明らかになったのである。
素材が耐火繊維でできていることは有名な話だ。万が一、炎に包まれても、一定時間は繊維が燃えないような素材である必要がある。
FIAが定める「FIA Standard 8856-2000」という規定がベースにある。その中のテスト項目に耐火テスト(ISO 15025)があり、その基準に合致しない生地は使用できない。
耐火性能に優れたアラミド繊維が折り込まれるのだが、10秒間内に燃えてはならず、よしんば10秒後に燃えても、2秒以内に鎮火せねばならないのだそうだ。イギリスやイタリアに点在するFIAが定めるテスト機関に持ち込み、実際に炎をあててテストされるという。
レース経験者なら体験済みだと思うけれど、レース前の装備品チェックの際に、襟首などに縫い込まれた「Standard 8856-2000」の数字を確認される。基準をクリアしたスーツであることの証なのだ。
「ジェームス・ディーンを気取って、なめし革じゃダメ?」
「デニム素材では?」
好き勝手にアイデアを叩き付けたら、ことごとく却下された。流行の素材でこしらえることはできないのである。
母の夜なべも今は昔…
テストをクリアした素材で縫製されるのだが、そこにもルールがある。縫製のための糸はもちろん耐火繊維であるアラミドだ。生地にはキルト状のステッチが施されている。それも、一辺が10cm以上でなくてはならぬらしい。
狙いは空気の確保だという。万が一、表生地に火がついても、その炎がインナーに延焼するまでの時間稼ぎのためだそうだ。レクサス×GQスーツでは、細かいステッチで個性を出そうとしたのだが、ここでは思わぬ壁に跳ね返された。
ワッペンの縫い込みにも規則がある。耐火繊維ではないワッペンの縫い込みは許されているが、ワッペンと生地の間には、アラミド繊維をはさまねばならないのだそうだ。
しかも、アラミド素材をはさみ、アラミドの糸で縫い込むとしても、裏生地まで糸が貫通してはならないらしい。まさに"針の穴"からの炎の進入すら遮断する必要があるのだ。
昔、母親や彼女に夜なべして縫い込んでもらったものである。それは旧い過去のスタンタード1986という規則の時代だという。懐かしい…。
いざという時に助けてくれるわけね
とまあ、レーシングスーツの規制の基本は、いかに炎からドライバーを守るかが重要なのだが、その他の要件も少なくない。
肩の部分に、ストラップが縫い込まれていることもある。ドライバーが意識を失うなどをして、コクピットから自力で脱出できなくなった場合に、レスキュー部隊が引っ張りだせるようにそれはある。
最近見なくなったけれど、腰や股あたりにそれが縫い込まれていることもある。
裾が、足首をテーパー状で縛り込まれているのがレーシングスーツの基本形だ。炎が足首から進入することを防ぐための規則である。
ストレートタイプが最近の流行だが、一見してスラックスタイプのそれも、生地を裏返してみるとテーバー状になっている。足首は確実に守られているのである。
露出する可能性があるツーピースは禁止。あくまでワンピースが基本だ。ファスナーも金属製でなければならず、プラスチックのような軽量素材は厳禁だ。
グループ・エム・レーシングでは、腰の縫い合わせを軽く仕上げてくれている。これは規則があるわけではないのだが、グループ・エム・レーシング独特の気配りだ。着心地がいい理由は、そんなところにあるのだろう。
開幕前の僕らを、ワクワクドキドキさせてくれるレーシングスーツは、実は裏ではこんなガチガチの制約のもとに製作されているのである。
たかがレーシングスーツ、されどレーシングスーツ。危険にさらされるドライバーに安全を確保するために、様々な規制があるのだ。
とわかっていても、また今年も徹夜を強いてしまうのである…。
木下 隆之 ⁄ レーシングドライバー
-
1983年レース活動開始。全日本ツーリングカー選手権(スカイラインGT-Rほか)、全日本F3選手権、スーパーGT(GT500スープラほか)で優勝多数。スーパー耐久では最多勝記録更新中。海外レースにも参戦経験が豊富で、スパフランコルシャン、シャモニー、1992年から参戦を開始したニュルブルクリンク24時間レースでは、日本人として最多出場、最高位(総合5位)を記録。 一方で、数々の雑誌に寄稿。連載コラムなど多数。ヒューマニズム溢れる独特の文体が好評だ。代表作に、短編小説「ジェイズな奴ら」、ビジネス書「豊田章男の人間力」。テレビや講演会出演も積極的に活動中。日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員。日本ボート・オブ・ザ・イヤー選考委員。「第一回ジュノンボーイグランプリ(ウソ)」