25歳の誕生日はファンとともに
初代NA型から歴史の始まりだった
マツダロードスターが、生誕25周年を迎えたそうだ。
初代NA型がデビューしたのは1989年。当時はユーノス店専売だったから、「ユーノス・ロードスター」と命名されていったけ。輝かしい歴史の始まりだ。
当時は、和製スポーツカー全盛の時代。英国ロータスを彷彿とさせる軽量コンパクトオープンスポーツは、話題の中心になった。ジャーナリストの立場で僕も、 全国各地のサーキットやら広島三次のテストコースやら、散々走りまくった記憶がある。毎月、ロードスターに関連した記事を書いていたような気もする。
実は9月4日、ロードスター生誕25周 年を記念したイベントが開催された。場所は千葉舞浜アンフィシアターだ。ディズニーランドの真横に位置するその巨大なイベントエリアは、シルクドソレイユ の常設会場としても名を馳せたところ。平凡な発表会場ではなくアンフィシアターで開催したことが語るように、とても個性的なイベントであり、会場を埋め尽くす人達の感動を誘ったのである。
25年÷3代=8年以上?
ロードスターがデビューから25年。長いようで短い。
NA型からNB型、NC型へと続き、来年には4代目のND型がデビューする(型式名で時代の変遷がわかりやすいね! GT-RもR32、33、34、35と数字が積み重なっていくけれど…)。
その頃のモデルチェンジサイクルは一般的には4年がひとつのサイクルだった。その流れでいえば、もはや形式名が7代目のNG型になっていても不思議ではない。だけどマツダはロードスターを、そういった商業的サイクルに乗せずに大切に育てていった。じっくりと熟成を待ちながら、いいクルマは流行に惑わされないぞと言わんばかりに、絶妙なタイミングで発表したのだ。
バブル経済に感謝しなきゃ?
1989年は、日本車の当たり年である。日本経済は、1985年のプラザ合意に端を発するバブル経済の流れを受けており、時代はウハウハ。クルマを出せばその場で売れたし、それも高額グレードが先に完売という時代だった(らしい…)。そんなだから自動車メーカーもビックリするほど利益を出していたのだ。
となれば自動車関係者も、抱えていた夢のクルマを開発したくなるのは道理。作りたいクルマを企画、経営陣も反対する理由もないから決裁ゴーとなる。
日産スカイラインGT-Rの誕生も1989年。トヨタ・セルシオも1989年デビュー。その前年には日産がシーマを発売、シーマ現象なるハイソカーブームを巻き起こした。翌年の1990年にはホンダがNSXを発表。自動車メーカーと自動車好きがバブル経済を謳歌したのだ。ロードスターもその中のひとつだった。
ただし、ロードスターが他のモデルと大きく毛色が違っていたことがある。それは、ハイパワーフォースには見向きもせず、ひたすら軽量コンパクトをウリにするライトウェイトスポーツカーとしての形態にこだわったことだ。
スカイラインGT-Rにせよセルシオにせよ、あるいはNSXやその数年後にデビューすることになるスープラも、大排気量エンジンを搭載する超ド級の性能を誇示していた。バブル経済だったから、価格や燃費など気にするものは少なかった。高額だってガソリン垂れ流しだった。金があったから気にはしなかったのだ。そんな時代の中にあって、ロードスターは異色だったのである。ハイパワー合戦はRX-7に任せていたという事情も味方した。
唯我独尊、1gのダイエット
そのコンセプトはまったく揺るぎなかった。1.6リッター(NA型)で始まったロードスターの歴史は、最大排気量2.0リッター(NC型)にまで到達したのだが、「ロードスターには絶対的なパワーはいらない。生命線は軽量化である」とされてきたのだ。
だから走って速くはないが、その代わりに飛び切り気持ち良かったのだ。
米国フォードに経営的影響力を握られている時に、アメリカ側がV型6気筒大排気量の搭載を要求してきたという。だが、それを突っぱねた。一時ターボエンジンを搭載したのは外圧との妥協点だ。開発陣は常に、パワーアップよりも軽量化に心血を注いでいたのだ。
ロードスター開発室には、「1円玉」が置かれていたという。「1g」にかかずらわれという意味だ。
「このバックミラーは、86gなんですよ」
そう言って嬉しそうにしていた開発陣の顔を思い出す。
モディファイは自由自在だった
多くのクルマ愛好家を生んだのも特徴のひとつだった。
ロードスターは英国ロータスエランの再来だともてはやされたものの、巷にロードスターが溢れ出すと皆、それぞれの個性とセンスでマシンをモディファイしていった。
当然、ブリティッシュスタイルが王道とされたが、アメリカンにデコレートするモデルも少なくなかった。もちろん日本流チューニングカーの素材としても人気だったし、あえてレトロな風貌に衣替えするスタイルも流行した。自由にセンスを注ぎ込めばどんなスタイルでも魅力的に輝いたのだ。
だから、ファンが多かった。雨後の筍のようにロードスターオーナーズクラブが誕生し、それが全世界各地に伝播し、今に至っているのだ。
ファンとの絆
ただし、多くの愛好家を獲得したのはクルマが安価だっただけではなく、走りが良かっただけでもなかった。マツダ開発陣の「ファンを大切にする気持ち」が強かったからだと思う。
件の「ロードスター生誕25周年」のイベントでは、我々マスコミは客席の隅に追いやられた。ステージ真ん前の砂かぶり席は、先着1200名のロードスターオーナーの特別席に割り当てられていたのだ。宣伝効果の高いマスコミよりもファンが重要視されたのである。これはきわめて異例なことだ。
さらに、その日のサプライズは、2015年4月にデビューする新型ロードスター(ND型)のお披露目だった。まだ7ヶ月も先のクルマを晒してしまったのだ。マスコミに極秘のままでいた新型を、だ。
しかも、だ。最初にそのクルマに触れたのは、やはり我々マスコミでも政治家でも関係会社のお偉いさんでもなかった。会場に駆けつけたロードスターオーナーの中から抽選で選ばれた幸運な3名を壇上にあげ、世界で初めて、関係者以外をコクピットに乗せてしまったのである。
スペックすら公表せずに…
通常この手のイベントにつきものの、スペックの紹介もなければ販売手法の宣伝もなかった。
銭儲けの雰囲気は一切なく、ただひたすらファンへのサービスに徹していたのが驚きだった。
ロードスターが愛されてきた理由はここにあると思う。
ファンを大切にすることがロードスターの生き様なのである。
全長がNCよりもコンパクトになり、エンジンは1.5リッターにサイズダウンすると知ったのは後日である。ちなみに、車重はこれまでよりも200kgも低い900kg台だという。
木下 隆之 ⁄ レーシングドライバー
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1983年レース活動開始。全日本ツーリングカー選手権(スカイラインGT-Rほか)、全日本F3選手権、スーパーGT(GT500スープラほか)で優勝多数。スーパー耐久では最多勝記録更新中。海外レースにも参戦経験が豊富で、スパフランコルシャン、シャモニー、1992年から参戦を開始したニュルブルクリンク24時間レースでは、日本人として最多出場、最高位(総合5位)を記録。 一方で、数々の雑誌に寄稿。連載コラムなど多数。ヒューマニズム溢れる独特の文体が好評だ。代表作に、短編小説「ジェイズな奴ら」、ビジネス書「豊田章男の人間力」。テレビや講演会出演も積極的に活動中。日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員。日本ボート・オブ・ザ・イヤー選考委員。「第一回ジュノンボーイグランプリ(ウソ)」