豊田章男社長との出逢い
心の傷が癒えぬままに…
3月に行われた今季初レース、VLN1ニュルブルクリンク4時間耐久レースは、悲劇的な幕開けとなってしまった。新たなシーズンを待ち焦がれた人達の心をもてあそぶかのように、観客の命が犠牲になるという後味の悪さを残したのだ。そこでの複雑な心境は先週のこのコラムで文字にしたとおりだ。
あれから一週間。
僕はニュルブルクリンクに潜む、時にはイタズラのすぎる神を恨みつづけた。突きつけられた運命はあまりに惨すぎた。ニュルブルクリンクを見守る神について考える日々を過ごしたのだ。
神はたしかにいる。
その神は、時には人々をもてあそび、そして時には微笑む。
ニュルの神様は、出逢いの神様でもある
ニュルブルクリンクは冷たいばかりではない。
大きく口を開けて我々を呑み込む悪魔のようでありながら、掌でそっと触れればほんわかと温かく、不思議なことにどこまでも人情味に溢れている。時には悲劇のストーリーを脚本しつつも一方で、とても人間臭く、人と人を結びつける。それがニュルブルクリンクの神。僕を豊田章男社長に惹き合わせたのも、ニュルブルクリンクの神である。
2007年のこと、僕はフランクフルトに拠点を置くドイツホンダの契約ドライバーとしてNSX-Rを走らせていた。コンビを組むのはK・ニーツヴィーツ。かつては世界選手権で王者に輝いたベテランドライバーである。
その年は一方で、GAZOO Racingがニュルブルクリンク詣でを開始した時期と重なる。アルテッツァを小改造したマシンを持ち込み、社内メカニックとともにやってきていた。その中心に、豊田章男副社長がいた。当時はまだ、副社長という立場だったのだ。
トボトボとパドックを歩いている僕に、あるトヨタの関係者がこういって声をかけた。
「もし良ければ、豊田副社長を紹介したいのですが…」
GAZOO.comと記されたチームウェアを着ていた。
「あっ、はい」
「ピットタワー2階のホスピタリティブースにいます。お時間がある時に、ぜひいらしてくださいね」
そう言って立ち去った。
器の大きな人間と、不遜な僕
遥か遠くドイツのサーキットでは、同郷の気持ちがどこかで通じ合う。ドイツ人に混じって孤軍戦う日本人が珍しかったのか、まあお茶でも飲んでいきなさいよといった気軽な雰囲気だったように思う。
ただ僕は複雑な思いを抱いていた。トヨタが大挙してニュルブルクリンクに押し寄せてくることを心の底では歓迎していなかったのである。トヨタの圧倒的なパワーによって僕が愛するニュルブルクリンクが掻き乱され、混乱させられ、後を濁したまま立ち去られるのではないかという危惧である。
この件はその場で豊田章男副社長にも告げているし、社長の半生を綴った単行本「豊田章男の人間力」でも紹介していることなのだけれど、すると豊田章男副社長は、不遜な僕の言葉に静かに耳を傾けながら、何かを納得したようにこういったのだ。
「我々にいろいろなことを教えてください」
僕は驚いた。世界のトヨタ自動車の、次期社長に登り詰めることが噂されていたあの豊田章男副社長に口にするには失礼極まりない言葉を投げかけたにも関わらず、僕の目をまっすぐ見てそう言ったのだ。
そしてこうも付け加えたのだ。
「木下さんが心配するような気持ちでは、まったくありません」と。
この人、ただものじゃないな。僕がそう思った瞬間である。
それからしばらく僕は、豊田章男副社長の行動をストーカーのように観察しつづけた。だが、僕に告げた言葉はけして嘘ではなく、一点のやましさもないことを知ることになる。
たとえばドライバーはレース前には、装備品チェックという義務がある。ヘルメットやレーシングスーツが規定に合致しているか、いないかの確認作業である。
正直に言えばこの作業は面倒である。重たい装備品を抱え、検査官の待つ長い列に並ばなければならないのだ。プロチームでは、マネージャーが代行するのが習わしだ。
だがその列にあの豊田章男副社長はじつに楽しそうな笑みを浮かべながら並んでいたのだ。
「豊田副社長、マネージャーにやらせてもいいんですよ。並ぶのは大変ですよ」
僕はそうアドバイスした。すると豊田章男副社長はこう言ってまた僕を驚かせた。
「いや、こうして並ばなければ、レースを学んだことにはなりません」
ただただ遊び気分でサーキット走行を楽しみにきたわけではなく、物見遊山で冷やかしにきたわけでもなく、この人は本気でモータースポーツを学びにきたのだと確信したのだ。
あれ以来僕は、社長としてではなく一人の男として惚れた豊田章男という人間におつかえすることにしたのである。
ニュルブルクリンクの神は、時には優しい。
一旦は断ってみたものの…
2008年秋、僕はトヨタのある方からニュルブルクリンク参戦に関してのドライバーとしての依頼を受けた。豊田章男副社長と出合ってから約半年後のことである。
「トヨタのマシンで参戦してもらえませんか?」
のちにそのマシンがLEXUS LFAであることを知る。
もちろん二つ返事で承諾した? それが常識というものだ。 天下のトヨタ自動車のメンバーとして、日本を代表するスーパーカーのステアリングを握るチャンスが舞い込んできたのだから、それを断る理由など通常ではありえない。
ただ僕は、一旦は断らなければならない事情があった。ドイツホンダとの契約がもう一年残っていたのである。
「大変嬉しいお誘い、ありがたく思います。ただ、それはお受けすることはできません」
断腸の思いでそう答えたあの記憶は、いまでも深く刻まれている。
ホンダからトヨタへの仁義
僕は悩みに悩んだ。そしてこんな行動に出た。
実は、僕をドイツホンダに送り込んでくれたのは、元本田研究所の役員であり、のちにホンダF1の監督を努めた橋本健さんだった。スーパーGT500(当時はGT選手権)に参戦するホンダNSXの契約を打診してくれたのも橋本健さんだったのだが、僕はその時点では別のGT500のシートが決まっており、一旦はお断りしていた。だがそのシートが開幕前の2月に破談となった。突如としてのスーパーGT500のシート喪失。いきなりの無職。暗く塞いだ気持ちの浪人生活にやけになっていた僕に、こう言って救いの手を差し伸べてくれたのが橋本健さんだったのだ。
「いまからGT500のシートは準備できない。そのかわり、ドイツホンダのNSXだったら紹介できるけど…」
そう、2007年に豊田章男副社長がニュルブルクリンクにやってきた時に僕は、橋本健さんがプロデュースしてくれたホンダNSXで戦っていたというわけだ。その半年後のトヨタからの誘い。僕がとった行動は、橋本健さんへ本心を告げることだったのだ。
「実はトヨタからニュルブルクリンク参戦の誘いを受けました。断ろうと思っています。豊田章男副社長の本気の言葉も確認が」
目を見ることができずに俯いたままか細い言葉でそう告げた。
しばらくの沈黙。激しく打つ鼓動。路頭に迷っていた僕にシートを作ってくれた恩師への不義理。じっと次の言葉を待った。
すると橋本健さんはこう口にしたのだ。
「わかった。トヨタに移籍したいんだね」
「……」
「噂では聞いていた。本人が報告に来なかったらどうなっていたかわからない。だけど、そこまで思うのだったら、移籍するといい」
「すみません…」
「ただし、条件がある」
「条件?」
「そっちに行って、彼らが腰を抜かすほどいい仕事をしてくれ。僕が見込んだドライバーがトヨタの目にとまったことは僕も嬉しい。そのかわり、いい仕事をしろ。それができるのであれば移籍を許す」
人間にはこんなにも長く涙を流せるものだということをそのときはじめて知ったのだ。
人と人を結びつけるのもニュル
僕は多くの人達の力を借りてニュルブルクリンクを走りつづけている。
日産の方々、オーツタイヤのメンバー、東洋タイヤのドライバーとしてもこの地を踏んでいる。そして橋本健さん。いまでは豊田章男社長のお膝元で戦っている。ここでは紹介しきれない人の愛情に支えられていまの自分がある。その導きを演出してくれたのが、時には厳しさを突きつけるニュルブルクリンクの神様なのだといま、噛み締めている。
ありがとう。ニュルブルクリンクの神様。
木下 隆之 ⁄ レーシングドライバー
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1983年レース活動開始。全日本ツーリングカー選手権(スカイラインGT-Rほか)、全日本F3選手権、スーパーGT(GT500スープラほか)で優勝多数。スーパー耐久では最多勝記録更新中。海外レースにも参戦経験が豊富で、スパフランコルシャン、シャモニー、1992年から参戦を開始したニュルブルクリンク24時間レースでは、日本人として最多出場、最高位(総合5位)を記録。 一方で、数々の雑誌に寄稿。連載コラムなど多数。ヒューマニズム溢れる独特の文体が好評だ。代表作に、短編小説「ジェイズな奴ら」、ビジネス書「豊田章男の人間力」。テレビや講演会出演も積極的に活動中。日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員。日本ボート・オブ・ザ・イヤー選考委員。「第一回ジュノンボーイグランプリ(ウソ)」