故・成瀬弘さんの遺作を駆って
桜の木に花を手向けて…
4月26日の晩。フランクフルト発日本行きのフライトを待っている。
搭乗を待つくつろぎのラウンジは、やや薄暗い。フライトは20時45分だから、まだ2時間以上もある。淡い間接照明で包まれたたったひとりの空間は、成瀬弘さんに思いをはせるには都合がいい。
VLN2ニュルブルクリンク4時間耐久レースが終わったのは昨日だ。ホテルをチェックアウトしてからそのままいつものように、成瀬弘さんが眠る桜の木に立ち寄ってきた。アデナウのスーパーマーケットで買った花束を手向け、手を合わせた。来たとき真っ先に寄る場所。帰る日にも必ず寄る場所。
レースの無事を成瀬さんに感謝しつつ、そしていま、こうして原稿を書いているわけだ。
ラウンジの片隅で、ピーナッツをボリボリやりながら呑む3杯目のハイボールは、もう氷が溶けかけている。
成瀬さんの桜の木のことを紹介したのは、この特別連載を始めて何LAP目だっただろうか。気になる人は、サイトのバックナンバーを読み返してほしい(53LAP 草葉の陰から、まだまだニラんでますよ!)。
GAZOO Racingの発起人でもあり、トヨタの全テストドライバーの頂点で指揮を振った成瀬さんが亡くなったのは、2010年6月23日だった。
氏の活動と功績を風化させないために、ニュルブルクリンクにほど近い場所に桜の木を植えた。我々はそこに必ず、それぞれの誓いを捧げるのだ。
2010年の手紙
ラウンジでぼんやりと成瀬さんと過ごした日々を回想している。
いま、ふと思い出した。たしか告別式の日、僕はイギリスのグッドウッドに出場するための飛行機の機内にいて、式には参列できなかったはずだ。そしていまそうしているように、薄暗い場所で亡くなったばかりの成瀬さんへの追悼文を綴っていたのだ。
PCには、その時の手紙が残っていた。読みなおしてみようと思った。
僕がはじめて、成瀬さんに声をかけてもらった時のこと、今でもはっきりと蘇ってきます。だって、とても印象深かったから…。
「うちの若い連中に、いろいろなこと、教えてやって欲しいんだ…」
いきなりの電話だったというのに時候の挨拶もなく唐突に、テストコースに来るようにと用件だけを突き付けられた。今思えば、いかにも成瀬さんらしいせっかちさが表れていましたね。その強引さに驚いたけれど、でもなんだか嬉しかった。ややぶっきらぼうな言い方には、不器用な正直さが感じられたから。人柄が滲み出ていたんです。ちょっと人見知りの人なんだなぁなんて感じた。でも、だからこそ、自ら電話をよこしてくれたこと、心に響いたんです。あれからもう、20年も経ちました。
覚えてますか?
- 成瀬さんは細かく指示をした。自ら立ち上げたチーム、自らが作り込んできたマシン。思い入れは強かった。
その頃の僕は他メーカーの契約ドライバーだったから、とても驚いたんですよ。
トヨタからこんな形で呼ばれるなんて、夢にも思ってなかったんだから。
そこで成瀬さんは、僕の疑問を先回りするようにしてこう言いましたね。
「メーカー契約の違い?ボクはそんなこと気にしないよ。バカらしい…」
そんな成瀬さんのストレートな言い回しが可笑しくて、僕は笑ってしまった。
成瀬さん:「何かヘンか?」
木下:「正しいけど、ヘンです」
成瀬さん:「ヘンでも正しいのなら、それは正しいんですな」
そしてまた笑ってしまった。
あれ以来僕は、成瀬さんのそばに寄り添うようになりました。
- ニュルブルクリンク24時間レースでの成瀬さん。嫌われるのを覚悟で、ぴったりと寄り添っていた。
ニュルブルクリンク24時間レースに誘ってくれた時も、いつものようなぶっきらぼうな電話でしたね。
「とにかく、若い連中を鍛えるのに力を貸して欲しい…」
迷うわけもなく喜んだ僕に、こうも付け加えましたね。
「今年は勝つための参戦ではない。クルマを鍛えることと、人を育てることが目的なんだけど、それでいいのか?」って。
レースに挑戦するのに、勝敗は二の次だなんて、また僕を驚かせた。
でも僕にとっては、成績なんてどうでもよかった。成瀬さんが心を込めたプロジェクトに参加させていただくことは、つまり、成瀬さんに接する時間が得られたということと同意なんです。一緒に何かができるということだけで、それ以外に理由なんてなにもなかったんです。
僕はもう成瀬さんに憧れ、深く尊敬していたから、言葉のすべてを聞き漏らさないように必死になっていた。嫌われるのを覚悟で、ぴったりと寄り添いました。でも、嫌な顔をせず、それを許してくれましたね。
- 予選に挑もうとするその瞬間にも、落ち着きなく指示を出す。成瀬さんを象徴するシーンだ。
でも、成瀬さんからたくさんのことを吸収しようとしていた人は大勢いたから、僕だけが独占することができなくて、ちょっと苛々したことも少なくなかったんですよ。
成瀬さんは、慕ってくる人には平等に優しく接していた。それを知って、ちょっとやきもちを焼いていたんです。
みんな成瀬さんに頼っていたし慕っていた。そしていつでも優しく、頼みごとを受け入れてくれていた。
そんな豪気な人、珍しいですよね。
男が男に嫉妬するなんて、変ですね。
電話してもあまり出てくれなかったり、メールしても見てくれなかったり…。
そのことで文句を言うと
「いいじゃないの、いつでも逢えるんだから…」
そういって大きな声で笑いましたよね。
でももう、逢えないじゃないですか…。
- テストドライバーでもあり、メカニックでもある。だが僕は職人と呼ぶのが相応しいと思う。
成瀬さんは、期待を掛けた若い連中には、ことさら厳しく接してましたね。
「あほっ!たわけ!」
ガレージにはいつも、成瀬さんの大きな声が響き渡ってました。
成瀬さんがそういって叱るのは愛情の現れだと皆が理解していたから、誰も嫌な思いを抱いていなかった。むしろ嬉しく感じていた。
「いつまでも人に頼らんで、自分で考えんか、たわけ!」
そう言って尻を叩いていた。でも、気がつくといつも自分でどんどんと作業を進めていました。いつか僕はこう言いましたよね。
「成瀬さんがなんでもやってしまうから、若いメンバーが手を出す間がなくなるんですよ。少しは休んでいてくださいよ」
するとニヤッと笑って、でもスパナを持つ手は休むことがなかった。
本当は、クルマに触れることが好きで好きで仕方がなかったんですよね。
クルマを走らせること、大好きだったんですよね。
- GRMN車両開発にも真剣だった。いいクルマをつくるのが生き甲斐だったんだな。
GAZOO Racingを中心になって育て上げ、GRMNという刺激的なコンセプトカーを世に問うた。
だけど、あのプロジェクトは志半ばです。
形はできたけど、でも完成はしていない。
ここから先は、僕たちでなんとかしろと?
それなのに逝っちゃっていいんですか?
すこしは休んでいてくださいよとは言いましたけど、ずっと休んでいいなんて言ってないんだから…。
レクサスLFAのニュル挑戦は今年、成瀬さんの描いたシナリオどおり、クラス優勝しました。
監督として、完璧な公約を達成しました。
だけど、これで終わりじゃないんだって言ってましたよね。
来年はどうしたらいいと思う?
そう言って相談してくれたじゃないですか。
なのに、ずるいですよね。
これからどうすればいいんですか?
成瀬さん、豊田章男社長が心の底から成瀬さんを頼っていたこと、もちろん感じてましたよね。まるで父親のように、優しく見守っていてくださいました。
豊田章男社長の正式な社長就任は、2009年6月23日でした。
成瀬さんがニュルで逝ったあの日は2010年の6月23日です。ちょうど1年です。
ちょっとずるくないですか?
豊田社長は心の強い人だから、成瀬さんが逝った後も気丈に振る舞ってますよ。
だけど、ニュルで逝ったあの翌日に、ちょうど1年目の株主総会があって議長を務めねばならなかった。ちょっと意地悪ですよね。
このところ、若い連中を鍛えることに躍起になってましたよね。
先のこと、考えてたんですね。
僕はいつまでも走ってられないのだからと言って、いつも人材育成という言葉を口にしていました。
何かを感じていたんでしょうか?
でも、もうちょっと待ってくれても良かったんじゃないですか?
- 空力パーツも、特に大掛かりな仕掛けはなく、限りなく市販車に近い。市販車を熟成させることが命題だった。
- 若手を率いて、指揮をとる成瀬さん
だいたい、カッコつけすぎですよ。
トヨタのトップガンだなんて異名をとって、ニュルマイスターと崇められて、数々の魅力的な作品を世に送り出した。
最後は、レクサスLFAを鍛え込んだ。
ドライバーとして素晴らしい功績を残した。
そして、自らが鍛え込んだマシンで、そのテスト中に逝った。成瀬さんのホームグラウンドであるニュルで。
しかもその日は、豊田章男社長就任のちょうど1年後です。カッコ良すぎますよ。
いつもいつも「若い連中を育てたい、クルマを鍛えたい」のだと言い、だけどそのためには成瀬さんがヒーローになる必要があるんですよと迫ると「伝説」になるのはクルマだけでいいんだよって、照れ笑いをしましたよね?
だけど、「ニュルの歓喜」からほぼ1ヶ月後に「ニュルの悲劇」となって、最期はしっかりと成瀬さんが「ニュルの伝説」になっちゃうじゃないですか?
なんで僕に今、こんな追悼文を書かせるんですか?
- プロトタイプゆえに、市販モデルとはやや趣が異なる。リストリクター規制がなかった時代。300km/hオーバーで突き進んだ。
- 主催者が指定したステッカー以外に、スポンサーらしきものは一切ない。ボディカラーも開発車らしくマットブラック。
成瀬さんが頑固で負けず嫌いですぐはぜるし、でも気のおけない仲間とワイワイするのが大好きで、不器用で、正直者で、驚くほど体力があって、言動には歯に衣を着せないから敵がすごく多くて、でも言葉には愛情がこもっているからその数百倍人望があって、若い連中に慕われていて、運転していれば機嫌が良くて、そしてなによりもトヨタを愛してるという話だったらいくらでも文字にできるのに、なんで最後にこんな追悼の言葉を書かせるんですか?
僕が今、どこにいるかわかりますか?
2010年6月30日の夕方、イギリス行きJAL401便の機内です。
なんのためだか、わかりますよね?
グッドウッドのあの晴れ舞台で、レクサスLFA50号車とGRMNスポーツハイブリッドコンセプトを走らせるためですよ。
本来は成瀬さんと一緒に走らせる予定だったんですよ。
だというのに僕は、成瀬さんの遺作をひとりでドライブさせるために、イギリスに向かわなければならない。イギリス「グッドウッド」に向かっています。
昨晩、通夜に参列してきました。
僕にとっての最後のお別れになってしまいました。
成瀬さん、祭壇で笑顔でいた。
ほんとうはもっと頑固そうな顔なんだけど、遺影で浮かべる表情は爽やかでしたよ。
あの写真、ご家族と一緒にGAZOOのメンバーが選んだんですよね。
彼らに泣きながら写真を選ばせるなんて酷ですよ。
僕も、涙が留めどなく流れ続けています。
もう僕は1週間も泣いているというのに、それでもまだ枯れない。
豊田章男社長は僕らにこう言いました。
「いっぱいいっぱい泣いてください。いっぱい泣いて、涙が枯れたらまた戻ってきてください」
いつかまた僕らは集まって、成瀬さんの意志を受け継がなければならない。
そのために、戻ってきます。だけど、この涙が枯れる日なんて、いつになるかわからないんです。
- 3本出しのマフラーにはこだわった。天使の咆哮と囁かれたエキゾーストノートが響く。
今から数時間後に僕は、レクサスLFA50号車のコクピットに座ることになります。
成瀬さんが仕上げた最後の作品にですよ。
僕は、どんな気持ちで走らせればいいのですか?
腕には喪章なんかさせられて…。
もっとスカッと走らせたかった。
成瀬さんの弔いのためにも、気持ちよく思う存分走ってこい、だなんて皆が優しく送り出してくれた。
でも、そんな気持ちになれるほど僕は大人じゃないんですよ。
遠慮なく、僕は泣くつもりです。
日本時間の午後6時12分です。 今頃ちょうど、告別式が終わった時間ですね。
大勢の人が集まったんでしょうね。その会場の祭壇から成瀬さんは微笑んでいる。
でも僕はそれには参列させてもらえず、今こうして機内でキーボードを叩かなければならない。今、高度3500フィートの上空を飛行しています。どんどんと日本から遠ざかっているんです。
せめてもの救いは、天国に逝った成瀬さんに、すこしは近いことだけでしょうか…。
照明の落とされた機内は、ひとり泣きつづけるにちょうど良すぎます…。
成瀬さん、ありがとうございます。
これまでのこと、すべて感謝しています。
ご冥福をお祈りします。
木下 隆之
ちょっとだけ近づけるのだろうか
あれから5年。毎年欠かさずに桜の木に祈りを捧げ、レースを戦ってきた。
これまでも、そしてこれからも僕らはそうやってニュルブルクリンクにやってくるのだろう。
三週間後のニュルブルクリンク24時間の本番の時には、この桜も色艶やかに咲いているに違いない。
「搭乗のご案内を開始いたします♪」
アナウンスにハッと我に返った。2010年まではいつも隣にいた成瀬さんは、いまはいない。魂だけがそこにいた。
桜の木からは遠ざかってしまうけれど、標高1万メートル上空に達すれば、地上より少しは成瀬さんに近づくことができる。あのときと同じように…。
木下 隆之 ⁄ レーシングドライバー
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1983年レース活動開始。全日本ツーリングカー選手権(スカイラインGT-Rほか)、全日本F3選手権、スーパーGT(GT500スープラほか)で優勝多数。スーパー耐久では最多勝記録更新中。海外レースにも参戦経験が豊富で、スパフランコルシャン、シャモニー、1992年から参戦を開始したニュルブルクリンク24時間レースでは、日本人として最多出場、最高位(総合5位)を記録。 一方で、数々の雑誌に寄稿。連載コラムなど多数。ヒューマニズム溢れる独特の文体が好評だ。代表作に、短編小説「ジェイズな奴ら」、ビジネス書「豊田章男の人間力」。テレビや講演会出演も積極的に活動中。日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員。日本ボート・オブ・ザ・イヤー選考委員。「第一回ジュノンボーイグランプリ(ウソ)」