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尼崎のやんちゃ坊主から日本の期待へ!! 小林可夢偉2010年12月22日
皆さんこんにちは!TDP事務局のフクです。 メリークリスマス!ということで皆さん楽しく過ごしていらっしゃいますでしょうか? 今週私から皆さんへのクリスマスプレゼントは、皆さんまだかまだかと待ちかねていたと思われます、今年は世界の"KAMUI"となった小林可夢偉君のプレイバック編でいきたいと思います!可夢偉君には、ここに書けることも書けないことも(笑)たくさんのエピソードが満載ですが、 この小林可夢偉君という人間は、脚色をしなくても事実を書けば、そのまま漫画のストーリーになってしまうような生き方とキャラクターなのです。その片鱗を窺わせる飾らないキャラクターは、皆さんにもテレビ画面などを通して伝わっていることと思います。 私がそんな可夢偉君に初めて会ったのは、フォーミュラトヨタ・レーシングスクール(FTRS)を、北海道の十勝インターナショナルスピードウェイで開催していた2001年のことでした。 やってきた可夢偉君は14歳で、まだ身長も160cmそこそこの背の低い少年でした。 そんな可夢偉君は、当時4回開催していたスクールの中から、それぞれ数人ずつを選抜して 2002年、当時15歳の可夢偉君
こうして可夢偉君は、2002年を練習生として過ごすのですが、9月に16歳となって デビューレースでは、週の半ばから走り始めた可夢偉君でしたが、それまで1年戦ってきた その中で走り始めた可夢偉君。周回を重ね時間が過ぎて行きますが、名前が 可夢偉君は初体験のウェットコンディションで、20分間の最後の1周までを習熟に使い、最後の1周だけアタックを行い、それを成功させたのです。デビュー戦でのその冷静さと能力に、 決勝レースでもセミウェットの中、堂々と3番手を走行していた可夢偉君でしたが、コントロールを失った他車に接触されたことで、リタイアとなってしまいましたが、周囲にインパクトを与えるに十分なデビューとなりました。 デビュー戦のグリッド そして、いよいよ翌年の2003年にはFTへのフル参戦を果たすことになりました。 最終戦の鈴鹿で雌雄が決したタイトル争いは、可夢偉君のエンジンブローという結末で、 振り返ると、そこにはリタイアしてコースからパドックに帰って来た可夢偉君がいました。自身がタイトルを逃した悔しさを隠すように大声で一貴君にそう一言いうと、そのままピットに戻って行きました。私には可夢偉君の大きな悔しさが伝わってくると同時に、その一言をいえる彼の強さと人間的な魅力を感じたのです。 2003年の可夢偉君 一貴君と一緒に関谷校長の話を聞いています ちなみにこの2人、いまでも仲良しでとっても良い関係です。そして可夢偉君は、この1年だけで、翌年には日本からヨーロッパに戦いの場を移すことになるのですが、そのたった1年間の 現在では世界を飛び回り、色々な事を知っているであろう可夢偉君ですが、ツインリンクもてぎでのランチでサーキットホテルの中華を食べに行ったときのこと。結構辛かったので、可夢偉君が店員さんに聞きました。「何でこんな辛いんですか?」店員さん「"しせん"料理ですので・・・」可夢偉君「へぇ~、この辺に生えてるんですか?」一同「???」実は、可夢偉君「四川」料理を、「自然」料理と間違えていたのでした・・・ また、今も昔もトヨタの育成ドライバー達には、レースやテスト後のレポート提出が義務付けられています。しかし可夢偉君からは、まったくレポートが出て来ません。当時地元の尼崎から 4輪レース初優勝時の表彰台でインタビューを受ける可夢偉君 当時16歳の可夢偉君は当然運転免許もなく、新幹線での移動のため私が東京駅まで乗せて行っていましたが、もてぎからの帰りにちょうどお台場での花火大会が開催されていて、渋滞中のレインボーブリッジから(今は通行止めになるみたいですね)見える花火に興奮して、 そして可夢偉君の口からも、たまにメディアなどに紹介されていますが、お寺での修行なんてこともやりました。私と同じAB型の可夢偉君、どうも落ち着きがなく、大人たちが協議し「寺で修行させよう」という結論に至り、2泊3日のお寺での修行に行くことになりました。 そこで、山のゴミ拾いをしたりといった奉仕活動をした可夢偉君。テレビなどで見ると怖い物なしのように見えますが、この時の可夢偉君の寝室となったのは、お寺の本堂。 2003年フル参戦時のグリッド、この時は「7」で1年間を戦いました もちろんサーキットの外だけではなく、コース上でも可夢偉君は色々と我々を驚かしてくれました。富士のレースで、予選でトラブルが出てしまい、最後尾の20位からのスタートとなった時の事です。決勝は雨のレースとなったのですが、シグナルが消えてスタートが切られると、前方の車群が立ち上る水煙の中に突っ込んで行き、1周目で一気に5位に順位を上げ、結局表彰台に上がってしまいました。後にも先にもあんなレースは見た事がありません。 また、こんなこともありました。8月のレースに向けた筑波サーキットでの事前テストの時でした。テストに向けて現れた可夢偉君。何と右足にぐるぐると包帯を巻いて、ビッコを引いて現れました。何でもカートの手伝いに行って、小さな子供に足の上に工具箱を落とされ、骨にひびが入っているとの事でした。 当然これではレース車両に乗ることは出来ないと思っていたのですが、可夢偉君は無理やりその足で走行したのです。結局1回走っただけで、その後は走らず見ていたのですが、 今では貴重な坊主頭の可夢偉君です そんな1年間を戦った可夢偉君が、シーズンを終えてヨーロッパで行われた欧州TDPの そして、その翌日にはコースレコードを3秒近くも更新したのです!しかしこのレコードタイムには裏があって、実は可夢偉君、コースのあるコーナーでコース外を走っていたのです。しかし、これは可夢偉君が"ずる"をしようとしたのではなく、「どうすればもっと速く走れるか?」とひたすらに速く走ろうとする可夢偉君の本能がそうさせたのです。 しかし、可夢偉君はきちんとコースを走ってもレコードタイムを更新し、ヨーロッパサイドのスタッフに「この日本人は何なんだ?」と大きな衝撃を与え、翌年のヨーロッパ行きのチケットを手にしたのです。ちなみにこのエピソードですが、人気漫画の『カペタ』の中でも使われています。 イタリアで2年目のシーズンを戦っていた武者修行中の2005年 こうしてヨーロッパ行きを決めた可夢偉君でしたが、実はこの時の可夢偉君、まっっったく! とは言っても、オーディションに行ってヨーロッパに行くことが決まって、そこから出発まで僅か 当然ながら、こんなことでいきなり「あー、うー」からペラペラになる訳もなく、しゃべれないまま 持前の明るいキャラクターで、 優勝したレースの戦利品でもあるシャンパンを その後、色々な苦労をしながらもFRのイタリア・ユーロのWチャンピオンを皮切りに、ヨーロッパでしっかりと実績を重ねてステップアップを果たし、F1へのステップアップを果たす前くらいからは、メディアに取り上げてもらうことも多くなり、ここ近年の活躍は皆さまの知るところではないかと思います。 2006年にF3ユーロシリーズを戦っていた頃の可夢偉君 2007年に居住地のフランス・パリで まだまだエピソードをあげていけばたくさんあり、それこそ1冊の本に出来てしまうくらいなのですが、今回はこのあたりにしておきたいと思います。そして"可夢偉劇場"も、まだまだこれからが本番です!来年もきっと我々の期待に応えて、ワクワクさせてくれるレースをたくさん見せてくれると思います。皆さんも引き続き可夢偉君への熱いご声援をお願いします! 2003年に4輪での第一歩を踏み出した可夢偉君 さてさて、今年もあっという間に過ぎた1年でしたが、このコーナーも今年はこれで終了となります。今年も1年間ご愛読頂き、時にはくだらないお話にもお付き合い頂き有難うございました。 そして、また来年もこのコーナーでお会いしましょう!
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