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toyota-f1.comインタビュー
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1. マイク・ガスコイン
「われわれは1人残らず自分たちのクルマが最高であってほしいと思っている」
現在42歳のイギリス人、マイク・ガスコインは、2003年12月1日から、パナソニック・トヨタ・レーシングのシャシー部門テクニカルディレクターの職にある。F1において4年目のシーズンを迎えたばかりのトヨタを全10チーム中上位5チームのひとつへと導いたのは、チーム内において、エンジン部門の責任者であるルカ・マルモリーニとともに重要な役割を彼が果たしたからに他ならない。
 

● マイク、シャシー部門テクニカルディレクターとしてのあなたは、日々の仕事の中でどんな役目を果たしているのでしょうか?
「シャシー部門テクニカルディレクターとしての私の仕事というのは、すなわち、シャシー・デザインのすべての面に対して責任を負っている、ということだ。デザインの仕事は、空力やあらゆる類のR&D(研究開発)と協調して進めていくわけだが、R&Dにはヴィークル・ダイナミクス(車体の挙動に関する開発)とシミュレーションも含まれる。さらにレースとテスト時のエンジニアリング、またF1ワークショップ内の活動についても責任を負っている。サーキットでは、すべてのオペレーション活動を監督し、レース戦略の検討を指揮するのも私の務めだ」

● あなたが初めてF1に足を踏み入れたのは1989年のことで、そのときのチームはマクラーレンでした。そこからはどういったキャリアを歩んできたのでしょうか?
「マクラーレンに加入した1989年の前は、イギリスのケンブリッジ大学でまずは学士号、その後博士号を目指していた。ケンブリッジ大学には1982年から通い始め、主にエンジニアリングを勉強した。専攻は空力と流体力学だったね。そして、地面に埋まっている障害物の周囲の空気の流れを研究する流体力学で博士号を取得した。大学を卒業するタイミングで、私はマクラーレンの人材募集の広告のなかに空力担当者のポストもあることを見つけて、それでマクラーレンに打診してみたわけだ。その結果、私はボブ・ベルに採用された。その後彼はルノー時代に私のテクニカルディレクター補佐になり、私がパナソニック・トヨタ・レーシングに移籍した後には彼がルノーF1チームのテクニカルディレクターになっている」

F1の過去と今、そして心に残る思い出

● 初めてF1の世界に足を踏み入れたとき、それまで想像していたことと一番大きく違ったのはどんなことでしたか?
「正直なところ、当時の私はF1に関して予備知識はまったく持っていなかったんだ。それまで特にF1やモータースポーツに大きな関心があったわけではなかったしね。だから実際に仕事をあたえられてから突然いろいろなことを吸収していった、という感じだった。事実上、あれが大学を卒業してから初めて手にした職だったわけだが、自分の興味の対象をすべて組み合わせたような仕事、つまり、空力とエンジニアリング、それにスポーツ、競争、風洞実験、といった職務に就けてとてもラッキーだったと思う。シャシー部門のテクニカルディレクターでいることのメリットの1つは、われわれの空力部門の心臓部でもある風洞で1日に3時間も過ごすことができる、という点だ」

● 1980年代後半から1990年代前半のF1は、いわばプロストとセナの時代でした。それ以降、ドライバーとクルマ、あるいはドライバーとエンジニアの関係はどのように変わってきているでしょう?
「ドライバーとエンジニアの関係がこの何年かで大きく変わったとは考えていない。マクラーレン時代には確かにアラン・プロストとアイルトン・セナというモータースポーツの歴史上ずば抜けたドライバーがそろっていたわけだが、それ以来、クルマが飛躍的に進化したとはいえ、ドライバーの役目とクルマのセットアップはいまだに当時と似ている。また、ドライバーと協力してレース戦略を練ったり、実行したりする部分も当時と変わっていないしね。ただし、電子機器が増えたことと走った後に必要になるデータ分析という点では、ドライバーの仕事内容も変わってきている。エンジニアたちもグランプリの週末には、以前よりももっとデータ分析に重きを置いたアプローチができるよう、適応してこなければならなかったしね。サーキットにおけるチームの規模も大きくなり、すべての物事がさらに細かな基準で処理されるようになった。とはいえ、ドライバーとエンジニアの関係は基本的な部分では同じだ。エンジニアの仕事の範囲は確かに広がったが、それでもドライバーがアクセルとブレーキとステアリングと地面に接している4本のタイヤを操作する、という役割は何年経ってもずっと変わっていない」

● あなたは日本人ドライバーの片山右京氏が在籍していたティレルでも仕事をしていましたよね。当時について、何か思い出はありますか?
「ティレルの仕事環境は素晴らしかったし、ハーベイ・ポストレスウェイトの下、テクニカルディレクター補佐だった私にとっては、彼からいろいろなことを学べる最高の場所だった。チームのみんなはとてもプロフェッショナルで、比較的小さなチームだったにもかかわらず革新性もあった。片山右京はティレルのために何年もドライバーを務めてくれたし、それにいいドライバーだったね。今でも彼と会うことがあるし、いい関係を続けさせてもらっているよ。実は大学時代の私は登山もかなりやっていたのだが、右京ももちろんそうだ。だからふたりの間にはお互いが情熱を注いでいる共通の関心があるわけだ。当時の右京はひじょうに速いドライバーだった。彼の最高のシーズンは1994年だね。あの年の彼は何度も際立ったレースを見せてくれたし、予選では何回も素晴らしい順位を獲得した。お陰でティレルは、タイトル争いにおいてチームの予算に見合った本来の順位よりももっと上の順位にまで到達できたんだ。予選ラップのときの彼の“万歳アタック”は今でも忘れられないね。一番楽しかった思い出のひとつは、私がティレルに加入して初めてのレースになったブラジルGPだ。そのときのチームにはとにかく問題が山積みだった。ハーベイと私は加入したばかりだったし、クルマのデザイン作業も遅れていて、レースになってようやくいろいろなパーツがそろう、という有り様だった。でも右京はこういった難しい条件の中で素晴らしいレースをしてくれて、5位入賞を果たし、チームに最初のポイントをもたらしてくれた。あのレースがハイライトとなって、彼の能力が世界に示されたわけだ」

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