第9の提言

第1回「謦咳(けいがい)に接す」株式会社トムス 代表取締役会長 舘 信秀 氏

9人の提言も最後となった。自動車メーカーや、立場の枠を越えてご執筆いただいた先駆の8人の方にまず感謝して止まない。全てを読ませていただいて、一人一人の方がモータースポーツに多くを思い、そして憂いつつも着実にそれを実践されている皆さんの姿に尊敬の念で一杯である。
 そのトリを飾らせていただくことに些(いささ)か面映さがあるものの、この企画を持ち込んだ者の一人として責めを感じつつ、拙(つたな)いながらも一文を投じさせていただくことをお許し願いたい。

、モータースポーツ界は冬の時代と言ってよいかもしれない。未曾有の世界的な経済危機からはまだ脱出しているようには見えない、と思うのは小生だけだろうか。経済学者ではないのでうまい表現はできないが、徐々に経済は回復傾向にはあるように見えるものの、それは企業の合理化による努力と、社員一人一人の努力の上に立っての回復傾向であり、決して消費力が増しての経済回復ではないような気もする。
 自慢話として読んでは欲しくないが、小生が僚友である大岩湛矣とトムスを起こしたのも今のような経済危機がキッカケだった。


1973年、第一次石油ショックが全世界を襲った。日本のスーパーマーケットにお客様が殺到してトイレットペーパーが買い占められてなくなるという珍現象が起きた、この石油ショックを契機に、日本の自動車メーカーはレースから撤退を決意し、ワークス活動が中止された。当時、トヨタ自販のワークスドライバーであった小生もご多分に漏れず職を失うこととなった。
 その時、失意というショックが無かったといえば嘘になるが、生来、小生が持ち合わせている楽観的な性格なのか「石油ショックだからといって自動車がなくなるわけではない。自動車が存在する限り、自動車の競争はなくならないはずだ」という強い思いがあった。
 その思いがトムス起業の礎となった。レースに参加して以来、参戦費用を稼ぐために自動車部品などを営業してきたこともあり、営業には自信があった。しかし、営業力だけではレースを続けることができないことは承知していた。やはり、技術に卓越した人が必要である。そこで、現在はトムスの社長としてなおも活躍していただいている大岩湛矣さんに声をかけた。大岩さんは当時、トヨタカローラ高島屋(現 トヨタカローラ東京)のサービス課に所属しながらレースに参戦していて、エンジンを含め技術に長けていた。以前から知己を得ていたとはいえ、先輩でもある大岩さんに、このように危機的な経済環境下で「独立しないか」、と声をかけることに一抹の不安はあったものの、声をかけたらいとも容易く「やろうか」と、トムス起業に参加してくれた。そこで「タチ」と「オオイワ」の頭文字から「TOM'S」という社名にした。

 1974年の2月に横浜の二俣川にあった中古車の整備工場を借りてトムスは創業した。開業はしたものの苦労の連続であった。ただ、チューニングショップだとかレーシングガレージというのはまだ数が少なく、特にレーシングカーのチューニングやメンテナンスする会社というものがあまり存在していなかった。ましてや自動車メーカーがレースから撤退した当時、レースをやっている人といえば、レース好きの人々が集まり、そのうちの一人の家の庭に車を持ち込んで、エンジンを弄くったりシャシーを弄くっては週末にその車を持ち込んでレースに参戦するというプライベーターが主流であった。
 狙ったわけではないが、トヨタのワークスドライバーであったことも幸いして、ライバルとして戦ってきた人からも「舘が独立したから応援してよ」などと温かい言葉を添えて人を紹介していただいたりしながら、商売のほうもそこそこ繁盛した。それで好きなレースを続けることができた。

 エンジンのチューニングが増えたこともあり、エンジンベンチを作りたい、ということから西多摩郡の瑞穂町に土地を借りて最初の社屋を建てた。
 細々ながらも人に恵まれ、社員が徐々に増えていった。
 創業して20年を経過しようとした1990年当初、トムスは約140名の社員まで膨れ上がっていた。その時、土地神話に浮き足立っていた日本経済が破綻し、大きな経済混乱に陥った。いわゆる“バブルの崩壊”である。レース界からスポンサー企業が波を引くように去っていった。トムスの経営も大変な厳しさを伴ったが、この時も原点に立ち返り、「サーキットがある限り、自動車がある限り、自動車の競争は続く」と考え、多くの人の力を借りながらもレースを続けることができた。

 そして創業して36年を過ぎようとする昨年(2009年)の正月。“リーマンショック”がもたらした世界同時不況の波にはさすがの小生も腹を括らざるを得なかった。「このような世界恐慌はレースを続ける状況には無いかもしれない」という危機感に迫られた。このままでは「会社を閉じなければならない」とまで腹を括ってはみたものの、「自分に何ができるのか」と問えば、「レースを続けていくしか、何もできないだろ」という答えが返ってくる。
そして、何とか現在も、また今年もレースを続けることができそうである。

故に長々とトムスの歴史を語ってきたかといえば、その背景には実に多くのレースに関わる先輩方がいたからであり、それらの先輩方やライバルたちの頑張る姿を見て、自分を鼓舞し、励みとして頑張ってこれたからだ、と思っている。
 その先輩方は、何もトヨタ自動車関係の先輩ばかりではなく、多くのメーカーの方々や、ライバルとして共に戦ってきた多くのドライバーの先輩や後輩たち、メカニックをはじめクルマのメンテナンスに日夜尽力いただいた技術者の仲間。レースを開催していただいた主催者やサーキットの方々。数ある多くのレースを取材してくれたジャーナリストの先輩。これら多くの先輩方や仲間に励まされ、アイデアをいただき、時には人を紹介され、支えられてきたからこそ今日のトムスはあるといってよい。
 そして、これらの先輩方や仲間がトムスばかりではなく、日本のモータースポーツが直面した幾つもの危機から救ってきてくれたからこそ、今も小生の大好きなレースを続けられていると思っている。
 しかし、それら先輩や仲間は今もレースに関わり続けているとは限らないのである。レース界から離れて他の分野で活躍されている先輩や仲間も少なくない。それら先輩方やかつての仲間と久々に会い、「サーキットに来てくださいよ」というと、口を揃えたように「サーキットに行っても居場所が無いんだよ」という答えが返ってくる。その度に悲しい思いに苛(さいな)まれる。
 あれほど自分が苦しいときに励みとなり、支えてくれた先輩や仲間が「居場所が無い」と言う。この時ほど自分の非力さを思い知る。「来ていただいたらトムスで持て成しますよ」と言っても、「トムスだけというわけにも行かないんだよ。それに今のレース界で俺のことなんか知ってる人間なんていないんだよ。舘さんくらいだよ、そう言ってくれるのは」という回答が返ってくる。

 これら先輩や仲間はレース界のことをよく知っている。サーキットに行けば現在のスポンサーがいるし、それなりのゲストも来場されている。その中にあって先輩やかつての仲間だからといって自分のペースでトムスの世話にばかりなってはいられない。レースの世界を十分に知っている先輩ならではの奥ゆかしさがそこにはある。
 これら先輩や仲間の言葉を聞くたびに、「どうしたら先輩方が気軽に来ていただけるのだろう」と考えてしまう。野球には名球会や野球殿堂などがある。それらの人は気軽に球場を訪れ、選手やコーチと気軽に言葉を交わす。それは自分の出身チームとは限らず、他のチームにも気軽に顔を出し、選手にアドバイスを送る。その姿は日本の野球界を良くしていこうとする姿にしか見えない。野球をこよなく愛し、日本の野球をもっと良くしていこうという意欲である。

 残念ながら、自動車レース界は引退したら自らがチームを起こすか、関連する仕事をするかでなければ、レースとの関わりをもてないばかりか、サーキットに来ても「居場所が無い」のが現実である。
 レース界を今日に伝えてくれた往年の先輩方や仲間が気軽にサーキットを訪れ、我々に気安く声をかけていただけるような「雰囲気」と、「居場所」をご提供させていただくことはできないだろうか。恐らく、そこには我々が気付かないでいるアイデアやアドバイスがたくさんあると信じている。それはレース界の将来に対しても意味のあることと思うが、小生だけの思い上がりだろうか。

* 謦咳(けいがい)に接す:尊敬する人に直接お目にかかり、話を身近に聞くことで学ばせていただく。

【編集部より】
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Profile:舘 信秀 氏
1965年、大学在学中にトヨタ・パブリカ700を駆ってレースデビュー。
1971年にトヨタ・ファクトリードライバーとしてトヨタと専属契約。
その後、1974年に株式会社トムスを設立し代表取締役社長に就任。
1982年、レーサーとしての現役を引退した後はチーム・オーナーに専念。
全日本F3選手権や全日本GT選手権など数々のタイトルを獲得し、1998年に㈱トムスの代表取締役会長に就任する。
現在はチームオーナーとして各参戦カテゴリー(スーパーGT、フォーミュラ・ニッポン、全日本F3選手権)の陣頭指揮を執る傍ら、(社)日本自動車連盟モータースポーツ評議会評議委員等、日本のモータースポーツの発展・振興に努めている。
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