もっとも手強かった奴!
「世界一過激なマシンに挑んできたけれど…」
僕がこれまでドライブしたマシンの中で、もっとも難航したのはITC仕様のオペル・カリブラだったと断言できる。
F1をも凌駕するのではないかと思われるITC(インターナショナル・ツーリングカー選手権)の過激さを紹介したのは164LAPだ。
メルセデス、オペル、アルファロメオの3メーカーが、車両規則書を裏まで読み解き、頭を豆腐のように柔軟して、アイデアを捻り出して、それは開発された。当時考えられる技術のすべて盛り込んでもいた。たとえばメルセデスは、最大100kgの鉄板が床下で移動する「ムービングウエイトシステム」(公式名称は不明)を投入したし、アルファロメオは当時としては画期的な4WDを武器に善戦した。オペルはカリブラに、「ラジエターシャッター」といった奇抜なシステムで最高速度を稼いだ。そんな複雑怪奇な技術は古今東西、ITC以外に見当たらないのである。
という顛末は、バックナンバー164LAPを読みなおしてほしい。(これがWeb連載コラムのいいところで、マウスをコキコキっとクリックすればすぐにバックナンバーを閲覧できる)
今回のネタは、そんな過激なマシンに挑み、分厚い壁に阻まれ撃沈したキノシタのインプレッションである。
実は僕は、当時、結構ブイブイ言わせていたから、オペルのITCドライバー候補に名を連ねることになり、ついにドライバーオーディションへと駒を進めることができた。そう、日本人初のITCドライバーという夢のようなチャンスが、気がついたら手が届くすぐそこに、すくっと仁王立ちしていたのである。もちろん二つ返事でシーズンオフのホッケンハイムに向かったことは言うまでもない。
「J.J.レートはそう言うけれど…」
ホッケンハイムで僕と、その他数人のドライバー候補(もちろん世界から集まってきた猛者ばかり…)を待ち受けていたのは、オペルのワークス部隊であり、テスト用に準備されていたのは、当時人気沸騰のイケメンF1レーサー、J.J.レートが実践で戦っていたマシンだったのである。緊張感で膝が笑い、ついでに顔も苦笑いしたというだらしなさは、いかにその体制がビックだったかを物語っている。
入念なコックピットドリルがあり実際にJ.J.レートからの懇切丁寧なアドバイスを受ける。そのために長々と数時間に及ぶ時間が費やされた。そりゃそうだ。ハイテクバリバリで、どうやって操作していいものかわからないのだから。
当時国内で全日本GT選手権を戦っていたものの、ABSはあったけど、トラクションコントロールシステムは禁止されていた。ハイテク禁止でドライバースキル依存型のレースばかりだったから、電子制御テンコ盛りのマシンには慣れていなかった。そんなハイテク未成熟の僕が、いきなり技術オリエンテッド最先端のマシンでホッケンハイムを攻めていいよといわれてもねぇ…なのである。ただただ冷や汗が滴り落ちるだけだ。
でも、J.J.はただただこう言うばかり。
「マシンをコントロールしようと思わなくていいよ。電子制御にすべてを任せて走れば、それでいい」
なんとも無責任なアドバイスである。もっとも、これがITCの本質を言い当てていたことを、あとで知ることになる。
たとえばブレーキフィールは、「ペダルを踏み込む」ではなく「スイッチに触れる」である。
制動のすべては電子制御ABSに依存していた。ブレーキペダルとおぼしきプレートはあるにはあるのだが、その裏側には小さなポタンが埋め込まれていて、それに触れればすぐさま最大限の制動力が発揮されるように細工されていたのだ。
そんなだから、ユルユルとしたテンポでコーナーに差し掛かる。だというのに、ボタンに触れた瞬間に咳き込みそうになるほどの制動Gが襲ってくる。あわててスイッチを離すと、こんどは制動Gがゼロになってしまう。
制動Gは「0」か「100」。ドライバーが踏力をコントロールする必要はなく、スリップ率のコントロールから前後荷重の生み出す加減などすべては、コンビューター制御に任されていたのだ。
そんなだから、初めてのホッケンハイムのコースや、そもそも過激なマシンに慣れようとしても、優しく出迎えてくれるわけがない。コース上でギクシャクギクシャクし、そのままピットロードに帰還し、メカニックが待つピット前に停めようとしても、いきなりABSが介入したり、あるいはノーブレーキでメカニックを轢きそうになったほどである。ピットの所定の位置に止めることすら困難だったのだ。
「日本人には到底馴染めないマシン」
電子制御4WDシステムも同様で、コーナーに飛び込んだら、あとはスロットル全開でいいとJ.J.が言う。前後左右のタイヤにトラクションコントロールが組み込んであるし、駆動配分も電子制御がやってのける。ドライバーがコントロールする必要などなく、コーナリングはマシンの頭脳に任せればいいというのだ。
だけど、古典的なマシン経験しかない僕にはそれができない。いきなり日本からやってきて、J.J.の大切なマシンを大破させるわけにも行かず、さらにいえばそんなマシンの性能を心から信じることもできず、両手両足を駆使してなんとか先を急ぐのだけど、そもそも走りがギクシャクギクシャクしているのだから埒があかないのだ。
一事が万事、それである。
しかも、ブレーキがノー感覚であるばかりか、ステアリングインフィメーションがまったくないのだ。タイヤが発熱しているのか否かの感覚も伝わってこない。その気になって走っていたら、突如としてテールスライドに陥ったり、コースアウトしそうになった。そう、自分が限界まで攻めているのかどうかすらもわからないのである。
これで雨でも降ってこようものなら、どう対処したらいいのだろう。こんなマシンで戦っていたJ.J.レートは偉大であるに違いない。
ITCマシンはまったく血の通ってないターミネーターのようだった。いかにもドイツのメーカーらしく、理詰めで開発されているのだ。エンジニアオリエンテッドであり、ドライバーはただ単に自動車という機械の中のひとつのガジェットでいいのだと語っているようなのだ。
マシンと対話をしながら、最良のドライビングを心掛けることで生き延びてきた僕には、それはそれはコンピューターに呑み込まれたひとつのパーツに過ぎないと思えてきた。
そんなだから、当然、オーディションは落とされた。
ちなみに名誉のために付け加えるならば、後年、鈴鹿サーキットに開催されたITCにスポット参戦した3人の国内トップドライバーもその感覚に馴染めず、ホームグラウンドであるにもかかわらず後塵を浴びている。血の通ったいいクルマ作りで育ってきた日本人には到底馴染めないマシンだったのである。
テストドライブのあと、僕は珍しく、吐き気をもよおしてしまった。緊張で飲み過ぎた濃いコーヒーが原因だったのか、あるいは緊張そのものが原因だったのか、わからない。
ともあれ、後にも先にも、あんなにドライブしづらかったマシンは、ITC仕様のオペル・カリブラ以外にない。
写真: WIN PHOTOGRAPHIC
木下 隆之 ⁄ レーシングドライバー
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1983年レース活動開始。全日本ツーリングカー選手権(スカイラインGT-Rほか)、全日本F3選手権、スーパーGT(GT500スープラほか)で優勝多数。スーパー耐久では最多勝記録更新中。海外レースにも参戦経験が豊富で、スパフランコルシャン、シャモニー、1992年から参戦を開始したニュルブルクリンク24時間レースでは、日本人として最多出場、最高位(総合5位)を記録。 一方で、数々の雑誌に寄稿。連載コラムなど多数。ヒューマニズム溢れる独特の文体が好評だ。代表作に、短編小説「ジェイズな奴ら」、ビジネス書「豊田章男の人間力」。テレビや講演会出演も積極的に活動中。日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員。日本ボート・オブ・ザ・イヤー選考委員。「第一回ジュノンボーイグランプリ(ウソ)」