「メンバーや目的の発表は、レース前日にいたします」
僕にとって2012年最終戦となるVLN9ニュルブルクリンク4時間耐久レースは、そんな不可解な参戦依頼から始まった。
「気持ちを整えるためにも、せめて体制だけでも教えてほしい」
そう嘆願しても、チームはかたくなに詳細をあかすことはなかった。すべては渡独してから公表するとの一点張りだった。2台の「86」を投入する計画らしい。どこからか、そんな噂を耳にしただけである。
僕は憤りを感じた。時には命を聖壇に捧げ戦うのに、コンビを組むドライバーも、命を託すメカニックも、そもそも参戦する目的すら告げられずにドイツに向かうなんて。
「つべこべ言わず、ただ指示どおりに走ればいいんだ」
僕はそんな不遜な態度だととらえ、胃袋あたりに漂う不信感を抑えるのに必死だった。
チームのためには、ひとつの駒になろう。それがたとえ捨て駒であっても。潔く従おうとする思いの裏側に、こんな怒りが重なっていた。
「ドライバーはただの“パーツ”じゃないんだ」と。
それでもこの任務を引き受けたのは、「86」へのささやかな興味である。GAZOO Racingが熱く気持ちを注いでいる「86」という素材に、もうちょっと触れたとしても毒にはなるまい。道端に忘れられていたボールを子供が蹴ってみるような、そんなたわいもない小さな興味だった。
プロジェクトに貢献しようという気や、成績を残そうという思いや、ましてやGAZOOが掲げる「クルマと人を鍛える」という信念さえも封印すればいい。チームが要求するように、ただただタイヤやエンジンと同じガジェット(素材)のひとつに成り切ろうと。独りよがりで楽しもうと。それだけが唯一の意義だったことを、いま正直に告白しよう。
そして、ほんとうにレース前日、影山正彦と佐藤久実、蒲生尚弥という「86」経験者に混じり、「86」未経験者の木下隆之を加えたメンバーでゼッケン166号車を導くという体制が告げられた。
もう1台の165号車には、影山正彦と蒲生尚弥がダブルエントリーでステアリングを握り、そしてトヨタの社員ドライバーでありトップガンである高木実と勝又義信の組み合わせが発表された。
レクサスLFAが走らない今回、僕はまさに、ただの駒なのだ。
いざ、メンバーが公表されても、感情の変化はなにもなかった。
ところが、レーススケジュールが進行し、チームが突きつけたひとつの“パーツ”としてスケジュールを漫然と消化しているうちに、プロジェクトの奥底に周到に忍ばされた狙いに気づきはじめる。
もはや影山=「86」になりつつある。
彼が献身的に仕事に挑む姿は僕を動揺させた。「86」を少しでも速くするために、熱く議論を重ねていく彼の存在は、バラバラだった金属のパーツをひとつにまとめる磁力のように映った。
現段階の「86」はライバルに対して戦闘力で劣る。どう贔屓目にみても、ストレート速度が不足している。
コーナーでは驚くほど軽快なフットワークなのだが、それを語ることは空しい言い訳でしかない。
それでも影山が激高し、声を荒げることはない。凡庸なセダンに引き離されても、じっと耐え、小さな声で呟くように状況を伝える。心の中の熱い思いを、あからさまにすることはない。そんな彼のスタイルがむしろ、チームを引き締めていることを、時間の経過とともに知ることとなったのだ。
“影山正彦”という、過去には飽きるほど全日本チャンピオンを奪い取ってきた男が今、「86」にすべてを注いでいる。そのことが、僕をことさら狼狽させたのである。
蒲生尚弥。
僕が彼の名を耳にしたのは、ほんの数ヶ月前である。初対面はフランクフルト空港。そこで初めて、彼がレーシングドライバーとしては希有な、たたずまいの静かな男であることを知ったのである。
彼は、GAZOO Racingが期待する次の世代として、白羽の矢を立てた人材である。スーパー耐久レースで「86」ドライバーに抜擢されてもいる。まだ若い。経験は浅い。才能は未知数だが、大きな期待を背負っていることは、チーム関係者の素振りでわかる。
彼に関しての知識は、たったそれだけである。彼が無駄に口を開くことはなく、感情を露わにすることもない。時差と極度の緊張からなのか、睡眠不足に悩まされていた彼が、必死に何かを吸収しようとしていることを、おぼろげながら感じただけ。初対面の僕が彼の本質を丸裸にするには、あまりにも時間が短すぎた。
もっとも、彼は任務を正しく遂行した。影山正彦というエースの背中を追いながら、彼も僕と同様に、タイヤやエンジンと同じガジェットになろうとしていたのだ。
ただし、ガジェットの質は、僕とは決定的に異なっていた。
僕がすべての感情を封印してパーツの一部になり切り、じっと静かに波風をやり過ごそうとしていたのとは異なり、彼はそれが正しい立ち位置であるという信念を胸に、自ら率先してガジェッドを演じていたであろうことだ。
速さを証明する必要のある彼が、ひとつの駒になり切ろうとしている。
ニュルを初めて走った若い彼から、ニュルを飽きるほど走り尽くしている僕が何かを学んだとすれば、それである。
「気持ちを整えるためにも、せめて体制だけでも教えてほしい」
そう懇願したにもかかわらず、
「メンバーや目的は、レース前日に発表します」
そんなつれない返事で始まった今年のVLN9挑戦は、ドライバーのキャラクターを確認するという深い計画が忍ばされていたのだろう。すべては、2013年に向けての周到な準備だったのだと想像するとつじつまが合う。
誰が「86」を育てるのに相応しい人材なのか?
誰がチームの輪を大切にするメンバーなのか?
誰がもうチームには必要ないドライバーなのか?
それを見極めるための参戦だったに違いない。
GAZOO Racingが掲げる「クルマと人を鍛える」、そのものだったのだ。
おそらく2013年もGAZOO Racingは、ニュルブルクリンク挑戦のプロジェクトを進めるはずである。
いや、すでにそれは進行しているに違いない。
今回の参戦は、少なくとも結果だけを見れば納得のいくものだったであろう。
予選では、僕がアタックした166号車が10分3秒でチームベスト記録を更新した。165号車の影山は、エンジンに不調があるようで、10分9秒に留まった。
だが決勝では一転して、影山がチームベストを連発、後続を引き離していく。ベストラップは5月の24時間レースの時を上回り、9分台に突入と更に進化を遂げている。蒲生も、慣れぬコースを安定して走っていた。高木と勝又のタイムも安定していた。佐藤も同様である。全員がチームのために、ガジェットに徹していたのだ。
空は晴れ渡り、珍しく好天に恵まれ、チームが送り込んだ2台の「86」は、そろって表彰台を獲得した。166号車が2位、165号車が3位。もっとも、参戦した2台がそろって表彰台に立ったことや、24時間レースからまだ数ヶ月しか経っていないにもかかわらずマシンは確実に進歩していたことではなく、チームが仕込んだ、背筋が凍るような冷徹かつ情熱的なミッションが、どこかで形になる日が来るに違いない。
そう、もう今年、来年が始まっているのだ。