「クルマとモータースポーツの明日」10人目の提言 「10人目の提言」作品一覧へ

「“クルマとモータースポーツ”を盛り上げる為には、『運転する事が楽しい』と思わせる車を作るべきです。」 ニックネーム : EP82-SW20さん

“クルマとモータースポーツ”を盛り上げる為には、「運転する事が楽しい」と思わせる車を作るべきです。

今のままでは日本のモータースポーツは間違いなく衰退するし、車は「快適な移動手段」だけの存在になってしまうと思います。
モータースポーツはドライバーが育たなくなり、国内レースであっても外人ドライバーが大半という、情けない有様になり、やがては日本からモータースポーツは無くなってしまうかも知れない。
何しろ、「運転免許を取ろうとしない若者」が増えているのですから。
その理由、自動車業界の皆さんは、真剣に調査して分析しているのでしょうか?

数ヶ月前、TVでこの話題が取り上げられ、運転免許を持っていない若者を街頭で探して、「何故免許を取ろうとしないのですか?」と、理由を尋ねていました。


  • 「運転する必要を感じないから。」(交通の便が良い所に住んでいる)
  • 「車は欲しいけど、持てる境遇に無いから。」(駐車場が確保できない)
  • 「免許を取るのにお金が掛かるから。」
  • 「車に興味ないから。」

この様な発言は今に始まった事ではないでしょう。 私が注目しているのは、次のような発言。


  • 「運転するのが面倒だから。」
  • 「乗せてもらった方が楽だから。」

1990年代くらいまでは、大半の男子が18歳になると当たり前のように免許を取っていました。
ところが20年後の今、こんな発言をする男子が増えてきているのです。
1990年代というと、AT車が急激に市場を席巻していった時代。
ほぼ同時期に制定された「AT限定免許」がそれを後押ししたのは言うまでも有りません。
これは「自動車産業の成長」と「自動車の幅広い普及」、ひいては「日本の経済成長」と言う良い点をもたらしました。
また、身体的な不具合でクラッチ操作ができない人にとっては、車をぐんと身近なものにしたと思えます。
けれど、結局これが「自動車は、快適な移動手段であればそれでいい」というユーザーの「意識改革」も進めてしまった様な気がします。

私は何も「AT車が悪い」と言う気はありません。

人間は基本的には「楽をしたい」と考える生き物、だから「快適な車を望むのは当然。」
しかし、MT車を運転できる能力を持った人であっても「早く・安く免許が取れる」と言う選択肢を安易に選べるようにしてしまった行政と、「需要が増えたから」と言う事でAT車重視の生産・販売戦略にしてしまったメーカー側のやり方が、今のこの「車離れ」を生んでしまった、と思っています。

また、「ドライバーが責任を持たなくてはならない領域を、車にやらせ過ぎている」と、感じる事が多いです。

下り坂で自動的にエンジンブレーキをかけるシステムが本当に必要ですか?
エンジンブレーキを使うためにODをオフにする・2・Lにする・・・。
教習所で習う基本操作をドライバーがしなくて済むような車は確かに快適ですが、本当に「良い車」でしょうか?
ドライバーが意識して操作すべき領域ではないでしょうか?


マニュアルモードにしていても止まれば勝手に一速に落としてしまうCVTは、「マニュアルモード」と言えますか?
滑りやすい雪道発進で有効な2速発進ができない、何故ですか?
エンジンを吹かしてレッドゾーンに入る直前で、これまた勝手にシフトアップするのでしょうか?
エンジンのリミッターを効かせてギアを固定したままにするのがマニュアルモードでは?
シフトダウンも、トルコンのロックアップのみ外して、ギアは固定したままで放って置いて良いのでは?
ドライバーが「正しくないギアに入っている」と判断して「正しいギアに入れないと車がまともに走らない」と認識させる事が、本来の姿では?


オプション装備とはいえ、坂道発進アシストシステム。
足が不自由で片足しか使えない人ならともかく、両足を使えるドライバーなら「発進の際に左足でブレーキを踏んでおいて発進する」という方法が可能。
ドライバーが考えて工夫すれば済む事ですら車にやらせてしまう。
「運転する楽しさをどんどん奪っている事」になりませんか?


これでは、車に慣れてしまえば、運転する事に飽きてしまうと思いますよ。
車を運転できる大人が、遊園地のゴーカートに何回も乗ってみたいと思わないですよね。
「付加価値」を高めて「利益を上げる」という事をカーメーカーが追求した結果、生み出されたのがこの「車離れ」だと思います。
見直す時期に来ていますよ。


ではどうすればいいか?
メーカーが主体で真剣に考えるべきでしょう。


個人的には、メーカーは「MT車の様に、ドライバーの責任領域を広げた車」も造り続け、そちらの販売にも力を入れる事。
行政はメーカーとタイアップして、「ドライバーの運転技術を向上させるイベント」を実施し、「運転技術を上げる事に喜びを感じる」ドライバーを増やしていくべきでしょう。


最後に、「複数の人の命を一瞬にして奪える鉄の塊」を操る責任をドライバーは自覚していなくてはいけません。
若くても「ブレーキとアクセルを踏み間違える」レベルの技術しか持てないドライバーが、免許を取れてしまう。
安易に動かせる昨今の車と運転免許取得システムは、安全上好ましいとは思えません。
交通事故を減らすためにも、この現状を真剣に見直す必要があると思います。

「文明の発達により、平和、安全ボケしていないか。」 ニックネーム :  641/2さん

文明とは、人が働かなくて済むようにするためのものである、という話しをどこかの本で読んだことがある。

運転はどんどん機械やコンピュータによって楽に、イージーになっていき、そして結局人間はただクルマに乗っているだけに、近い状態で運転することになりかねない。僕はナビというものが好きでない。ま、高くて買えない、つけられない、という低所得者だから、でもあるわけだが、それは置いておいて、とにかくあの自動道案内装置ほど人間の尊厳を無視したものは無いと思っている。

地図帳を広げて、ルートを決めて、混雑具合や交通事情や地形や天候や、そしてそんなことを考えながら旅先行く先への思いを膨らませる、という楽しい作業が「ナビ無し」にはある。確かにナビがあると間違いにくいし、時間も短縮できるが、しかし頭は使わなくなるし、僕にしたらせっかくの楽しみも奪われてまったくいいところがない、となる。間違ったっていいじゃないか、人間だもの(笑)。また失敗からの復活で人間力を蓄えていく、そんな学びだってある。間違いも人生には必要なのだ。

ナビはほんの一例。

なんでもクルマ任せ、人任せ、もっというとクルマのせい、人のせい、という方向にどんどん向かっていないだろうか。それはハンドルを握る責任感にも直結していると僕は思っている。ただ快適に移動できて便利、なのではなく、タイヤを転がしハンドルを切るということは地球の重力との関わりを生み、遠心力を発生させ、そして生身の人間の力だけではコントロールできない、「目に見えない大きな力」をもってクルマは動いていく。例えばエアバッグがついているから安心だ、ではなく、エアバッグを展開させないよう、事故に遭わぬよう、起こさぬよう、ドライバーは、人は、もっと注意深く、また謙虚にならなくてはいけない。

文明の発達により、平和、安全ボケしていないか。

クルマの運転には様々なリスクがある。しかしそれを回避しながら目的地へ向かう、その責任意識や意思決定があって初めて、自由な移動や旅の原則や楽しさがもたらされる。それをもう一度、作る側にも、買う側にも思い出してほしい。

F1もいまやオートマチックである。それに、あらゆるエレクトロニクスによってコンディションは安定化され、ま、その分ドライバーはレースに集中できるはず・・・なのだが、最近は追い抜きやバトルがない、と、残念がる人の声も多い。では、マニュアルギアボックスに戻せばいいかというとそういうわけではなくて、レースの場合、今、様々な問題から「目的」が失われている時代なのだと思う。

かつては、いくら燃料を燃やしても、誰よりも速い、ということに心血を注ぎ、闘志を燃やした。ところが、今の時代が自動車に求めるのは速さだけではない。安全でもなければならないし、さらには燃料を燃やさないことを良しとしている。そうなると、例えば、僕はモーターレーシングはほぼF1しか見ないのですが(すみません)、ちょっとレギュレーションが時代に即していない。もっと燃費競争をしなければならないし、さらには、もっと新しいエンジン技術を積極的に投入できるような環境作りが必要なのではないか。ディーゼルのF1があってもいいし、ハイブリッドのF1があってもいい(そういえばカーズはどうなったの?)。

ただ速く走れます、それだけでは自動車として能がない。そのことにはむしろ量産車のほうが積極的に向き合い取り組んでいる。つまり今のレーシングカーってとてつもなく時代遅れな産物なんですね。そんな乗り物で競争したって、そりゃ乗ってるほうだって虚しいだけだろうし、作ってる人だってどこか不毛であろうし、ましてや見ている側にだって応援する意義が見つけにくい。旗振り声援に声枯らすにはそれなりのモーメントがなければ。

燃費という地球が突きつけ、人々がなにより関心をもち、向き合っている課題に向き合ってこそレースは新しい「目的」と「心の燃料」を得ていくんではないだろうか。レースをやるほうが生き生きとやれば、応援にだって力は入るし、ましてやテーマを共有する一体感をもってレースを応援できることほど”アツい”ことはない。その原則の上で、新たな闘争、新たな確執も、見れるかもしれない。それもスポーツの醍醐味。今は闘争、確執をする理由さえ見失っている。ただのピンボケ。

今の人は、クルマの技術の進歩で誰にでも出来るクルマの運転をある意味「ラクショー」だと思っている。しかしそれはとんだ思い違いだ。一歩間違えば自分も自分以外の人も傷つけたり殺したり出来る、クルマは凶器になる。むやみに燃料を燃やし自分勝手に走り続ければいつか地球は滅びていくことになる。ぜんぜんラクショーなんかではない。そんなラクショーでないことに、でも向き合っていくことで人間がクルマという道具で闊歩できる自由はもたらされると思うし、交通社会はさらに成熟していくだろう。

そうして人を束ねていくリーダーシップこそ、今の自動車メーカーに求めて行きたい。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。

「市販車がレースできびきび走っている姿をみれば意識は変わる」 ニックネーム :  muruboraさん

まずは市販車に、気軽にスポーツ走行できる車種を発売する。
軽自動車から2リットルまでの軽量スポーツを作り販売する。
4ドアでも5ドアでも良い。デザインの良い、かっこいいもの。
なるべく安く。200万以下で。それにチューンカスタマイズ部品を作ってそれでも商売する。
さらにディーラーにカー用品店を作り、車のチューンやカスタマイズをできるようにする。

モータースポーツも市販車ベースで極力市販車に近い状態でのレース。
スーパーGTは人気はあるがいったい車が何かわからないハンデを付けて差をつけない方式だがその場合ホントに強いマシンはわからない。
はっきりとメーカーが競っていて何処のメーカーが優秀なのかがわかれば車も売れる。

モータースポーツのテレビ放送を必ず毎週同じ時間にする。
放送がないからレースにも車にも関心がもてない。
レースも30分程度で決着するレースを作る。それを放送する。

市販車がレースできびきび走っている姿をみれば意識は変わる。

「今こそ、自動車先進国の日本が、世界の基準となるような新しいモータースポーツの姿を示す時」 ニックネーム :  藍希さん

モータースポーツは、読んで字のごとく自動車によるスポーツであり、自動車競争でなければなりません。では、果たして、今日のモータースポーツが本当に自動車競争であるかといえば、首を傾げる状況であると言わざるを得ません。

また、今日のモータースポーツ界に活気がないのは、世の中が不景気であるということを理由にしていますが、本当にそうなのかということにも疑問を投げかけたい。

今は不景気と言いながらでも、毎年数多くの新車が発表され、新しい技術もどんどん導入されています。以前は、エンジンのパワー競争という時代があり、「どこのどの車が何馬力で、最高時速が何キロ出る」といったことが、車の性能を評価する上で重要視され、実際にユーザーも、車選びにおいて参考となりました。

しかし、今は違います。そういう時代は終わったのです。ただ、自動車という道具に対しての本来の目的は、ずっと変わっていません。それは、“楽をして早く目的地にたどり着きたい”というものです。人間が何も使わずに空間移動をできる能力でも持たない限り、これからも車という便利な道具はなくならないでしょう。

今の日本の道路事情において、これ以上のスピードアップ化は難しいと思われます。今の車の性能からすると、まだまだ余力は残されているものの、その性能のすべてを発揮するのは難しい状況です。そこまで車の性能が上がったのは、まさにこれまでのモータースポーツが貢献してきた結果だと言えるでしょう。

では、今、求められているものとは何か?それは、車の本来の目的の一つである“楽をして”ということがテーマになってくると思います。と言って、人間が何もせずに、座っているだけで目的地まで運んでくれるということではありません。あくまでも車を操るのは人間であり、それを楽しむことに意味があるのです。これからの自動車競争のテーマも、まさにそこにあるのではないでしょうか?

ここで“楽”とは何かを述べます。例えば東京-大阪間を移動する場合、飛行機や新幹線を利用すれば“楽”であるし、所要時間も少なくて済みます。しかし、家を出て最寄りの駅までの時間や移動方法、他にも乗継ぎや乗換え等を考えれば、意外と無駄は多い。さらに雨が降っていたり、荷物が多かったりすれば億劫にもなります。

その点、車を使えば、家から目的地まで雨に濡れることもないし、荷物だって積めます。また、飛行機や電車も使えない夜中の時間帯であっても、車なら関係なく移動することができます。

もちろんデメリットもあります。運転者は疲れるし、ガソリン代も掛かれば、車の維持管理にもお金が掛かります。この負担さえ軽減できれば、車はもっと便利なものになります。ガソリン代が掛からない=燃費の良い車。車の維持管理が掛からない=壊れない、部品が消耗しにくい車。運転者が疲れない車=乗り心地が良くて、安全に快適に運転ができる車。これらの項目を実現できれば、車ほど“楽”な乗り物はありません。これらの項目の技術を向上させることが、今、自動車メーカーが力を入れていることであるし、そのことに費用や労力を惜しむものではありません。その技術の競争の場がサーキットであり、モータースポーツなのです。

では、今のモータースポーツで戦っている車はどうでしょうか。地を這うような低い車高に、乗り心地の悪いサスペンション。室内にはロールバーが張り巡らされ、乗り降りもしにくい。車を動かそうと思えば、重たいクラッチペダルを踏み、クラッチミートに気を使わなければ発進もままならない。格闘家の腕力を持たなければ回せないハンドルを持ち、全身の力を込めて踏まなければ止まらないようなブレーキ。真夏ともなると、車内の温度が60℃ぐらいになって、運転者がフラフラになる車。これっていったいどうなのでしょうか?レーシングカーだから…で良いのでしょうか?

一方、市販車を見てみれば、ボタン一つでエンジンが掛かり、オートマのギヤを入れて、軽い踏力のブレーキペダルから足を離せば車は動き出し、腕力のない女性やお年寄りの方でも誰でも運転できるようになっています。今のレーシングカーが技術の最先端を行き、サーキットが技術の競争の場ならば、これからの車は、そのような運転者を苦しめる車になっていくのでしょうか?はっきり言って、ユーザーはそんな車を求めてはいません。ただスピードが速い車なら、今の技術があればいくらでも作れるでしょう。ユーザーが求めているものと、自動車メーカーが求めている技術と、モータースポーツが一体とならなければ、モータースポーツは世間からも認められなくなるでしょう。

今、若者のスポーツカー離れやモータースポーツ離れが叫ばれていますが、スポーツカーばかりがモータースポーツではありません。スポーツカーにこだわり、それに目を向けさせようとする行為はエゴ以外の何者でもありません。今求められているニーズに、モータースポーツ界の方が合わせる必要があるのではないでしょうか?

今、モータースポーツ界に求められているのは、もう一度原点に帰っての自動車競争であると思います。それはもう単なるスピード競争ではない。環境にも人にも優しく、最低限それをベースとしながら、純粋に技術と速さを競うものであって欲しい。もちろん、それを生かせるようなシステム作りも必要となってくるでしょう。今現在、速い車に足かせをして遅くしてバランスを取っているようなシステムは、どう考えても真の自動車競争であるとは思えません。それは、無理やりレースを盛り上げるためだけのルールであり、競争ではありません。盛り上げるシステム作りではなくて、盛り上がるシステム作りをすべきです。明確なシステム作りこそが、再びモータースポーツをより身近なものとし、再びモータースポーツが脚光を浴び、そして誰もが魅力的に思える車作りもできて、車という便利な道具が、より社会に貢献できることに繋がっていくのではないでしょうか?

モータースポーツ先進国のヨーロッパにおいても、今はそれがうまく機能しているとは思えません。今こそ、自動車先進国の日本が、世界の基準となるような新しいモータースポーツの姿を示す時が来ているのかもしれません。

以上