週刊連載コラム「クルマとモータースポーツの明日」9人の提言 「9人の提言」トップへ戻る

第2の提言

第3回「自らが諸悪の根源だとはついぞ気がつかなかったぞ。」株式会社童夢代表取締役/日本自動車レース工業会会長 林みのる氏

回目の原稿の最後で、次回はもう少し核心に触れてみようと述べた割にはありきたりの内容だったな?と思われた方も少なくないと思うが、何事に関しても、情報の伝達には発信者と受け手がある訳で、受け手がその情報に興味がない場合、回りくどい表現方法ではなかなか真意が伝わらない。
私は20年弱に亘って「自動車レースは自動車開発技術の戦い」だと言い続けてきたが、およそ誰も関心を示さないしレース界が変わる様子もないから、勢い、表現はストレートになるし過激になってくる。それでも反応がなければ、よりエスカレートしていくのが道理と言うものだ。
私も長年に亘って、手を変え品を変えて「改革」の必要性を叫び続けてきて思うのは、これだけ自動車レースがジャンク・スポーツになり果てても、いささかもぶれることなく同じ道を突き進むレース界の人たちの頑迷固陋な頭の構造だ。
どんな事業でも活動でも、長年努力を続けても成果が得られなかったら方向性や方法論を見直すのが普通だと思うが、この後に及んでも、この世界にはまったく改革に向けての兆しも見えない。

これは、よっぽど頭が悪いのか向上心が欠如しているのか、いずれにしても、聞く耳を持たない相手に対しては、どんどんキーワードを露骨にしていかなければ伝えたいことも伝わらないし、反面、あまり露骨にすると、あらぬカラクリの暴露や個人攻撃に陥ってしまいがちで下世話な話になってしまい、かなりのジレンマに陥ることになるが、いずれにしても、聞く耳を持たない人達にはどんな重要な情報も「馬」「糠」「柳」「猫」「豚」のことわざのごとく無意味だし、その言葉じりだけを捉えられて、単なる過激な放言者のように思われるのが関の山だ。
何を言っても無駄な努力であることは身に染みているはずなのに、まだいくばくかの希望を捨てきれずに声を荒げている自分は嫌いではないが、まあ、これ以上、嫌われたくもないので、表現はそこそこにしておくことにした次第だ。
しかし、興味のある人は童夢(http://www.dome.co.jp)の私のコラムなどを参照してもらえば、かなりのキーワードが散りばめられているので、読み説けばより理解が進むだろう。

て、およそ近年の日本人は、まるで流れに身を任せて生きることが大人の良識ある行動だと言わんばかりに、十把一絡げに群れることに安心感を求めているように見える。
このように大勢に迎合することに汲々としている人たちにとっての最大の関心事は大勢であり、世の流れには敏感でも、真実を見極める洞察力というか心眼というか、ちょっとした違和感とか疑問とかに対する反応は鈍い。
この流れも正しい方向に向かっていれば問題ないものの、方向が間違っていれば、いずれ流れは停滞し澱んでくるし、もっとひどくなれば干上がってしまうだろう。
身を委ねる流れが途絶えれば生きていけないのでやっとあがき出すのが常で、まさに、今の日本の政治がその状況だ。血液製剤で何百人の被害者を出しても、年金や郵貯の資金が食いつぶされても、省庁再編しても公務員の数が減らなかっても、政党助成金だしても献金は無くならなかっても、天下りが年々増えても、借金が1000兆を超えても、全て寛容に見過ごしてきて任せっきりだったけど、やっと、この期に及んで、いくら何でもこのままでまずいかな?と気がついた時は、最早、足もとに流れは無く、ひび割れた地面が広がり成す術もないというところだ。

FNもちょうどそんな時期に差し掛かったのかもしれないが、関係者の端っこのほうからSOSというか相談というか、藁をもつかむような、かなり切羽詰まった声が聞こえてくる。

藁でもゴミでもいいが、1995年に「ポストF3000を考える」という企画書で、モノコックなど個々に開発することが困難な部品だけをワンメイクとして供給して、その他の部分に関しては各コンストラクターが製作して技術の戦いを導入するというアイデアは、フォーミュラ・ニッポンという名称だけ採用されて、内容については検討もされなかった。
HONDAのバックアップを受けて童夢で開発した、オーバルの走行も可能なMLというシャーシのFNへの供給も「特定の1社(童夢)だけに利する訳にいかない」と断られた。
FCJもFNも含め、およそ一度の相談もなかったし見積もりの依頼も受けたことがない。
(FNは、直前におざなりのプレゼン依頼が来たが、時期的にも内容的にも形式的なものであることは歴然としていたし、既にSWIFTで進行していることは承知していたので、当然ながら無視した)

レーシングカーに関しては、日本では最も先進の開発技術と豊富な経験を持っていると自負している童夢だが、フォーミュラに限らずGTに関しても、あらゆる技術分野に関して、どこからも何も聞かれたことがない。長年、私はこのまるで日本に存在していないような扱いが不思議でしょうがなかったが、最近、そのロジックが理解できるようになってきた。それは、童夢という存在が日本のレース界の流れにそぐわない特殊な異分子だから排除の原則が働いているのだろう。昔から、事あるごとに「技術競争になれば童夢しか勝てない」とか「国産化したら童夢だけが儲かる」とか理由は様々だが、深層に、レーシングカーの開発技術を持つものを避けた環境で均衡を保とうとする心理がレース界の人たちに働いている事は間違いないだろう。つまるところ、単なる邪魔ものだったのだ。
何のことはない、日本の自動車レースの技術や産業の発展振興の足を引っ張っていたのは、童夢が目の上のたんこぶとなって阻止していたという訳だ。
まあ、そうであるのならば、そろそろ童夢をぶっ潰して人材を散逸させれば、そこここに自動車レース関連技術の萌芽が芽生え始め、それが時間の経緯とともに大樹に育つのではないか等と遠大な構想を持ち始めて居る。
まるで、手塚治の「火の鳥」で、意識体となったマサトが生命の復活を期待して生命の元となる要素を海に注ぐ心境と言えば言い過ぎか?
大げさでなく、死に物狂いで食らいついてきたレーシングカー・コンストラクターの末路としてはいささか侘しい限りだが、そうなれば、少なくとも今後10年くらいは、日本の自動車メーカーが世界のトップカテゴリーに挑戦する時は外国の技術に頼らざるを得ないし、そういうギミックを続けているといつまでたっても頼りっぱなしになるし、マサトの生命の元もそうそう早くは進化しないだろうし、やはり日本は、いつまでもドライバー育成だけの国かもね?

【編集部より】
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Profile:林みのる氏
1945年生まれ。
幼少の頃から物造りが大好きで、模型、ラジコン、オーディオ、バイクを経て、16歳からは車に没頭。19歳の春、鈴鹿サーキットで知り合った浮谷東次郎の依頼で HONDA S600を改造したレーシングカーを製作することになり、デビューレースで優勝する。
それからレーシングカーを造り続け、1975年に童夢を創業、現在に至る。
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