GTレースの「見えない敵」として「熱中症」に関しては先号でお話をした。まだお話したい事はたくさんあるのだが、いずれの機会にする。今回は「見えない敵、第2弾」として「急性一酸化炭素中毒」のお話をしたい。「急性一酸化炭素中毒」は車両火災発生でも当然起こりうることであるが、車両火災が発生しなくとも走行中に自然発生的に一酸化炭素中毒を発症する事があり、これまでS-GT参加チームには何度も警鐘を鳴らしてきた。
その原因はエンジン不調や排気管の割れなどで不完全燃焼した排ガスが何らかの原因でコクピット内に侵入、ドライバーが気付かないうちに急性一酸化炭素中毒に陥り、急に意識を消失するものである。高速バトルを繰り広げているドライバーの急な意識の喪失は熱中症と同じくその結果は深刻である。
またGTAでは、2005年からピット・ガレージ内の「有毒ガス計測」を何度も計画してきたが、当時は測定機器が大掛かりになり、測定の専門家が出張してくる形になるので、なかなか「有毒ガス計測」は実現できなかった事も事実である。
しかし最近、非常にコンパクトでしかもデーター・ロガー機能を備えている計測機器が発売されたので早速購入し、2009年第7戦FUJIで、NISMOとR&Dの協力を得て、レース中の「コクピット内」の一酸化炭素濃度レベルや、ピット・ガレージ内での「エンジンの暖気運転」時の一酸化炭素濃度も計測する事が出来たのである。これはイギリス製の機器であるが、日本の代理店があり、ソフトの説明書も日本語版があるので、GT参加各チームにも購入してもらう事とした。
先ずは、実際に普通の乗用車で街中を走行した時に我々は車内でどのような一酸化炭素濃度環境にいるのか調査した結果を見てみよう。使用したのはS-GTで使用しているナンバー付きのメディカル・カーで、サーキット走行用にブレーキやクラッチ強化、そしてエンジンもやや濃い目のチューンが施してある。エアーコンは「室内循環モード」ではなく常に「外気導入モード」である。走行パターンは長いトンネルが数か所ある一般道、峠道に入りちょっと早めのペース、そして高速道路、都内のやや渋滞を経由した約3時間の実験である。長いトンネル内でトラックの後ろではさすがにCO濃度は35ppmに上昇しているが、これとて、全く問題にならないレベルである。
それでは、実際のレース中ではどのような結果が得られたのかお話ししよう。
S-GTレース中の#1号車(GTR赤グラフ)と#62号車(SUBARU青グラフ)のコクピット助手席側のCO濃度である。それぞれ、前後左右にバトルをしている他車両の存在や、コーナーや直線など走行状態により、刻々とその濃度は変化する。また、排気管の位置によってもその濃度が異なる事も予想される。S-GTカーの排気管位置は大きく分けて4種に分けられる。SUBARUは左フロントタイヤの前方、そしてGTRに代表されるドアー前方、レクサスのようなドアー後方、そしてNSXのようなボディー後方である。排気ガスの「コクピット侵入」に関してはボディー後方のNSXが有利である事は当然であろう。さて、#1号車、#62号車ともに美しくカーボン形成されたコクピットを持ち、バルクヘッドやドアーの隙間からの自車の排気ガスの侵入は考えにくく、コクピット換気のための空気取り入れ口からの流入と、今回のレースでは、#1号車も#62号車も「常に他車との絡み」が多かったので、「他車の排ガスの侵入」が多かったのかもしれない。レース中の走行パターン(他車の存在等)とのつき合わせが必要であろう。追加計測として、同様の車両が単独走行している時のデーターの採取を依頼し、更にTOYOTA、HONDAの各車にも同様の計測をお願いした。
いずれにせよSUBARUの200ppmは何とか許容できる範囲である。
以下はガレージ内で暖気運転中の一酸化炭素濃度を計測したものであるが、車の排気管の後ろに座りこんで「臭い」と「サウンド」を楽しむ「変人」は我がGTのピット・クルーにはいないが、あえて測定条件を厳しくして排気管後方2mの位置で計測していただいた。暖気運転時には1300ppmという高濃度のCOが排出される事がお解りいただけると思う。
黒グラフはガレージ内、赤グラフは暖気運転中のドアーを閉めた状態のコクピット内の一酸化炭素濃度であるがMax300ppmであり、この数値が、ガレージ内のパーテションで隔てられた「エンジニアズ・デスク」エリアに近いものと想像される。
一酸化炭素は「サイレント・キラー」とも言われ無臭である。またその比重は空気を1.00とした場合0.967でほぼ空気と同じであり、高温の排気ガスとして排出された場合、ガレージ空間の上層部に蓄積されやすい。→ピットビルの2Fのゲスト・ルームが危ない(?)とレポートさせていただいた。
以上の結果を確認したGTAの反応は素早かった。これまでの経験からエンジンの暖気運転時にはある程度一酸化炭素濃度の高い排気ガスが排出される事は想像できていた事であるが、高橋のレポート直後に全参加チームに「ピットでの暖気運転中はファン付きの長いダクトあるいは大型送風機でコース側に排気する手配」の通達を出してくれたのである。
今後、オートポリス、茂木の2戦が残っており、他チーム(メーカー)のガレージ内の一酸化濃度を上記と同様な条件で計測する予定であるが、これらのデーターは2010年度から導入される「触媒」装着の前後のデーターとして蓄積されるべきであり、ドライバーのみならず、ピット・クルー、エンジニアの皆さん、そしてピットの周りにいるファンの皆さんの健康と安全を維持する上で重要な事項である。
以下に参考資料として空気中の一酸化炭素濃度と症状の対比を示す。ただし、これはあくまで「目安」である。
200 ppm 0.02% 2~3時間で前頭部に軽度の頭痛
400 ppm 0.04% 1~2時間で前頭部痛・吐き気、2.5~3.5時間で後頭痛
1500 ppm 0.15% 20分間で頭痛・めまい・吐き気、2時間で死亡
軽症の場合は酸素吸入で間に合うが、中等度以上では高圧酸素療法が必要不可欠となる。
高圧酸素療法:当初、潜水病治療の為に開発された高圧酸素タンク(チェンバーあるいは部屋全体)の中に患者を入れて治療する方法で、CO中毒や脳外科領域でも使用される。また、簡単な酸素カプセルは最近、ほとんどの救急病院に設置されているが、本格的な高圧酸素療法室を備える病院は富士スピードウェイの近辺では東海大病院、横浜労災病院、横須賀潜水実験隊(自衛隊横須賀病院に入院して行う)の3箇所しかない。
さて、一応今回で本稿は終了とするが、モーター・スポーツ・セーフティーの話題も今後の研究もまだまだ奥が深いものがある。今、S-GTに参加する各メーカーの代表者たちと高橋を含めたGTAのメンバーたちが「S-GTセーフティー研究班」を結成、モーター・スポーツ・セーフティー・テクノロジーに関しては「メーカーの垣根を超えた情報交換」をどんどん推し進めているところであり、1999年から高橋がずっと唱え続けてきた事が実りつつあり、嬉しい事である。最後に、Dr. Sid Watkins の信念を引用し、これまでモーター・スポーツ・セーフティー研究に多くのご協力を頂いた皆さんに感謝いたします。
Motor sport has become so much safer over recent years, you might think that accidents
only happen to other people. Wrong-an accident can happen to anyone. --Sid. Watkins
(モータースポーツは近年ますます安全になり、多分あなた方は「事故は他人事」と考えておられると思います。
それは間違いです。事故は誰にも起こりうるものです。Sid. Watkins)
【編集部より】
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- 1950年3月生まれ 西台整形外科理事長。専門は救急・外傷外科。
1998年までS-GT(当時はJTTC)GT300クラスに参戦。参戦中から「GT専属レース・ドクター」の必要性を訴え続け、1998年シーズン終了とともにGTA専属ドクター。以来GTレースやテストに常に帯同し、GTドライバーの安全対策とレース・メディカルやレース・レスキューシステムなどの統一性の構築などをアピールしてきた。本人はレースから引退したつもりは全く無く、S-GTのシーズンオフには現在でもチームからお誘いがあればDaytona24時間などの長距離レースには時々参戦している。