ル・マン24時間の歴史
ル・マン24時間の変遷をたどる(1/5)
今年で81回を数える伝統のレース、ル・マン24時間。それは自動車の歩みもとともにあったと言っても過言ではない。その始まりはどんな経緯だったのか? どんな革新が試され、どんな車が戦い、記録を打ち立ててきたのか?90年に渡る歴史を振り返ってみよう。
始まりは市販車による耐久レース
第1回ル・マン24時間を制した
シュナール&ワルケール(A.ラガシュ/R.レオナール組)
1923年5月26日、33台の車両がル・マン市内のサーキットを走り出した。記念すべき第1回ル・マン24時間のスタートである。日本では、この年(大正12年9月)関東大震災が起こった。そのことからも、いかにル・マンが歴史あるレースであるとわかる。
フランス西部自動車クラブ(ACO)が24時間耐久レースを企画したのは、既に日常のクルマとかけ離れていたグランプリカーではなく、市販車による耐久レースを開催しようという意図からだった。コースもグランプリが開催されるサーキットでありながら、普段は公道として使用されているル・マン市内に決定した。また、このレースには当時まだ不完全だった自動車の照明装置のテストの意味も含まれていた。そして、市販車の性能が反映することから自動車メーカーの関心も大いに集めることになった。
第1回ル・マン24時間は天候への配慮から5月最終週の土曜日スタートと決まった。フランスの15社、ベルギーとイギリスから各1社の計17メーカー、35台のエントリーが集まった。排気量別に4クラスが設けられ、各クラス別に最低走行距離が設定された。また、車両の修理はドライバーが自ら行わなければならなかった。雨にたたられたこのレースを制したのは直列4気筒2,978ccのシュナール&ワルケールを駆ったA.ラガシュ/R.レオナール組で、走行距離は2209.536km、平均時速92.064km/hであった。
国際レースにふさわしい規模に発展
ル・マン24時間の名物だったル・マン式スタート
(写真は、1967年 第1回富士1000kmより)
ル・マン24時間の名物だったル・マン式スタートが実施されるのは第3回大会からだ。コースサイドに進行方向に斜めに並べられた車両に対し、コースをはさんで反対側に立つドライバーが合図とともに駆け寄りスタートするこの方法は、その後世界中の耐久レースで採用されるようになった。しかし、シートベルトをせずにスタートするドライバーが現れ、危険と判断されて1969年を限りに廃止された。
1925年になるとイギリス、イタリア、アメリカ車の参加も見られ、国際レースと呼ぶに相応しいエントリー内容となった。翌1926年、決勝レースの平均速度が100km/hを超える。
1930年、史上初の女性コンビ(M.マルーズ/O.シコ)が
ブガッティ40で見事7位で完走
直列6気筒3,446ccエンジンのフランス車、ロレーヌ・ディートリッヒB3-6を駆るR.ブロシュ/A.ロッシニョール組が24時間で2552.414kmを平均106.350km/hで走り切ったのだ。この車両では補助照明としてフォグランプが試されている。そして1927年には前輪駆動車、トラクタが登場。7位で完走を果たした。
1930年になると史上初めて女性ドライバーが参加する。M.マルーズ/O.シコの女性コンビが4気筒1,496ccのブガッティ40に乗り、こちらも見事7位で完走している。
1936年のフランス自動車産業界のストによる中止に続き、第2次世界大戦のため1940年から1948年までル・マン24時間は中断された。2013年は初開催から90周年となるが、第81回大会となるのはこのためである。
- P1:始まりは市販車による耐久レース
- P2:戦後はメーカー対決の舞台となる
- P3:史上最低の完走率13.7%という1970年
- P4:Cカーの時代は日本車が健闘
- P5:主役はディーゼル、そしてハイブリッドへ