ル・マン24時間の歴史
ル・マン24時間の変遷をたどる(4/5)
Cカーの時代は日本車が健闘
1990年のトヨタ90C-V
1982年FIAグループCカー規定が発効し、1980年代のル・マンはグループCカーの時代となった。高性能のCカー(956/962)を開発し、これを販売したポルシェによって有力プライベーターも優勝争いに加わり、ポルシェの天下が続くことになる。
1985年にはトムスがCカーで再びル・マン24時間に挑戦。トムス85C-Lが12位で完走を果たした。翌86年には日産も参戦。マツダを含めた日本の3メーカーがル・マン24時間に挑み、「Le Japon attaque(日本の来襲)」と現地でも話題になった。そして1987年にはトムスがトヨタ・チーム・トムスとして参戦を開始。2台のトヨタ87Cが序盤上位を走るが共にリタイアに終わった。
1988年にはジャガーが優勝し、ポルシェの連勝記録を7で止める。この年、ユノディエールのストレートでフランスのWMプジョーが405km/hの最高速度を記録。1990年に2つのシケインが設けられたためこの記録は今も破られていない。
1989年はポルシェ、ジャガー、メルセデス、さらにアストンマーチンという欧州勢に日本の3メーカーが挑むという展開となり、ザウバー・メルセデスが初優勝を遂げた。この年は日本人ドライバーが大挙して参加、その数は実に17名を数えた。
1990年代に入ると日本車の優勝が現実味を帯びて来る。そして1991年、トヨタ、日産の参加はなく、優勝はジャガー、ベンツ、ポルシェの間で争われると目されたが、伏兵マツダが総合優勝を果たした。
1992年、60回目を迎えたル・マン24時間は、全参加台数わずか28台という寂しいレースとなった。トヨタ、プジョー、そしてマツダが争い、プジョー905が優勝。2位にトヨタTS010が入った。
翌93年はトヨタ対プジョーという構図となった。ともに3台体制で必勝体制を敷き、下馬評ではトヨタ有利の声が多かったが、次々とトラブルが襲い、悲願達成はならなかった。両ワークスの参戦はこの年限りで一旦終える。
TS020の日本人トリオが惜しくも2位
1994年、残り1時間までトップを走行するも
トラブルで優勝を逃したトヨタ94C-V
そして1994年、ル・マン24時間は再びGTカー主役の時代へ。エントリー台数は急速に回復し、47台が出走した。グループCカーもこの年に限り出場は認められたが、エアリストリクター等で大幅な制限を受けた。Cカーのトヨタ94CVで参加したSARDチームは最後まで優勝を争うが、土壇場でトラブル。掴みかけた勝利をGTカーに仕立て直されたCカー、ダウアー・ポルシェにさらわれてしまった。
1995年はGTとプロトがそれぞれ2クラス(LM GT1とLM GT2、WSCとLM P2)の計4クラスとなった。ただ、出走全48台中、プロトはWSCとLM P2合わせてわずか9台だった。そしてこの年、JJ. レート、Y.ダルマスとともにマクラーレンF1GTRのステアリングを握った関谷正徳が日本人ドライバーとして初めてル・マン24時間優勝を遂げた。GTカーで2シーターのオープンプロトタイプ、WSCカーを抑えての快勝だった。
この後もGT1カーとWSCカーの争いが続くが、大幅に進化した各ワークスチームのGT1カーは次第にロードカーとはかけ離れたものとなって行く。1998年はトヨタ、日産、メルセデス、ポルシェ、パノズがLM GT1クラスに、BMWはプロトのBMW V12 Le Mansで参戦。優勝はポルシェ911 GT1 98で、3台のTS020を投入したトヨタは片山右京/鈴木利男/土屋圭市組の9位が最上位となった。
1999年、ポールポジションのTS020 1号車を先頭に
フォーメーションラップに向かう
1999年も4クラスながら、LM GT1はクローズドのプロトタイプカー、LM GTPに改められた。こうしてル・マン24時間は再びプロトタイプカーが優勝を争う時代に入った。メルセデス、アウディ、BMW、トヨタ、日産、クライスラーがワークス参戦。トヨタは3台のTS020をLM GTPクラスにエントリーした。片山右京/鈴木利男/土屋圭市組がトップのBMW V12 LMRを猛追。レース中の最速ラップを記録して追い上げるがタイヤバースト。惜しくも2位となった。
2000年になるとプロトタイプとGTの台数が26台対22台となり、以後ほぼ同様の割合が保たれるようになる。この年、アウディR8が圧勝。以後アウディの支配が続くことになる。アウディと同じVWグループに属するベントレーがR8のエンジンを搭載するベントレーExp Speed 8で参加し、1-2フィニッシュした2003年以外はアウディが連勝を重ねた。その中には日本のアウディ・ジャパン・チーム郷による2004年の優勝も含まれている。またこの年、ディーゼルターボ車が初登場した。ローラB2k/10Bキャタピラーで、4時間でリタイアした。
- P1:始まりは市販車による耐久レース
- P2:戦後はメーカー対決の舞台となる
- P3:史上最低の完走率13.7%という1970年
- P4:Cカーの時代は日本車が健闘
- P5:主役はディーゼル、そしてハイブリッドへ