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ル・マン24時間の歴史

ル・マン24時間の変遷をたどる

ル・マン24時間の変遷をたどる(2/5)

戦後はメーカー対決の舞台となる

ディスクブレーキが初めて使用された1953年のジャガーXK120 Cタイプ
ディスクブレーキが初めて使用された
1953年のジャガーXK120 Cタイプ
そして1949年、戦後初のル・マン24時間が開催される。参加台数は49台を数えた。この中には戦火を逃れた1939年大会参加マシンが数多く含まれていた。そして後に連勝を重ねるフェラーリが初登場したのはこの年である。また、レギュレーションに「プロトタイプ」が初めて明記され、レース専用車の参加が可能になった。優勝したのは初参加のフェラーリで、166MMに乗るL.キネッティ/L.セルスドンのコンビが平均時速132.420km/h で3178.299kmを走破した。
1950年代に入るとル・マン24時間は次第にメーカー色が濃くなっていく。既にヨーロッパで注目されていたこのレースで勝利を飾ることは、自動車メーカーにとって恰好の宣伝となったからだ。1950年にアメリカのカニンガム・チームがキャデラック・タイプ61セダンを持ち込み、翌1951年にはポルシェがル・マン24時間に初登場。そしてその翌年の1952年には同じくドイツからメルセデス・ベンツが初めて本格的なワークス体制でル・マン24時間に参加。ジャガー、フェラーリ、アストンマーチンと覇を競っている。3リッターの300SLで参加したベンツはいきなり優勝。屋根付きの車両の優勝はこれが初めてであった。
1955年、悲劇のル・マン24時間を制したジャガーDタイプ
1955年、悲劇のル・マン24時間を制したジャガーDタイプ
また、ル・マン24時間では様々な新技術も試されている。1951年にミシュランがラジアルタイヤを導入し、1953年にはジャガーによってディスクブレーキが初めて使用された。ベンツはダイレクト・インジェクション方式を採用し、車両とピットとの無線通信も試みている。だが初参加の3年後、ベンツはモータースポーツ史上最悪のアクシデントの当事者となる。
1955年、メルセデス・ベンツは3台のワークス300SLRで必勝体制を整える。ジャガー3台、フェラーリも3台、さらにマセラティ、アストンマーチン等もワークスカーを投入し、この年のル・マン24時間は熾烈な戦いが予想された。そして午後6時過ぎ、大事故は起こった。300SLRの1台が最終コーナーで接触事故を起こして宙に舞い上がった後、観客席側のコンクリートウォールに激突。バラバラになった部品が観客席に飛び込んだのである。死者83人、負傷者は100人以上の大惨事であった。メルセデス・ベンツは全チームが撤退。以後30年以上に渡ってレース活動を休止する。しかしレースはそのまま続行され、ワークス・ジャガーDタイプが優勝した。

1960年代はアメリカとイタリアの対決図式

1966年、ついにル・マン24時間を制覇したフォードGT40
1966年、ついにル・マン24時間を制覇したフォードGT40
1959年になると参加車両はスポーツ・プロトタイプとGTという2つのカテゴリーに分類される。その後、ル・マン24時間は再びGTカーが多数を占めようになって行く。1962年はフェラーリ330LM TRIが優勝。フロントエンジン車がル・マン24時間を制するのはこれが最後となった。そして翌63年には約6キロのユノディエールのストレートで初めて300km/hの壁が破られる。予選でフェラーリが302km/hを記録したのである。またこの年、レースの正式結果とは別にガスタービンエンジンを搭載したローバーBRMが参加し、G.ヒル/R.ギンサーの手によって見事7位で完走を果たしている。
因みに1963年には鈴鹿サーキットで第1回日本グランプリが開催されている。ここから日本でも本格的な自動車レースが開かれるようになった。
1964年、フォードがル・マン24時間制覇に動き出す。しかし初参加のGT40は3台すべてがリタイア。レースはフェラーリが連勝記録を5に伸ばすことになった。だがこの後、フェラーリ対フォードがル・マン24時間の焦点となって行く。そしてフェラーリが6連勝を飾った1965年、常設のブガッティ・サーキットが完成した。
1966年、本気になったフォードがついにル・マン24時間を制覇する。アメリカ式の大物量作戦がフェラーリを圧倒したのだ。優勝したフォード・マークIIは4843.090kmを走破。平均速度も201.795km/hと初めて200km/h を超えた。そして1962年の25台から徐々に減っていたGTカーの出走が、この年わずか数台となった。
翌67年もフォードが圧倒した。7リッター・エンジンのニューマシン、マークIVに乗るD.ガーニーとA.J.フォイトはアメリカ人によるアメリカ車での優勝という、史上唯一の結果まで残した。平均時速218.038km/h で5232.90km を走破。史上初めて5,000kmを超えた。
この年は日本でも富士スピードウェイで初の24時間耐久レースが開催され、トヨタ2000GT(細谷四方洋/大坪善男)が優勝を飾っている。