パナソニック・トヨタ・レーシング -チーム-
F1におけるパナソニック・トヨタ・レーシングの歴史
パナソニック・トヨタ・レーシングの長い道のりは、1999年、当時トヨタ自動車株式会社の社長であった奥田碩が、FIA F1世界選手権に参戦するという果敢な決断を発表したことから始まった。
トヨタのチャレンジングスピリットは当時、世界規模での企業拡大と、ハイブリッド技術のPR推進に代表されるが、同じくこのチャレンジスピリットの下で、F1チームは一から作り出されることとなった。
他のマニュファクチャラーとは異なり、既存チームの買収や、単なるエンジン供給者としての立場はとらず、トヨタはF1カーを一つ屋根の下で設計し、製造する事を選んだ。
ドイツ・ケルンのトヨタ・モータースポーツがこの挑戦の本拠地として選ばれ、WRC(世界ラリー選手権)とルマン24時間レースのために用意された施設は、F1で必要なレベルに増強された。
2001年、ミカ・サロがドライバーとして出来たばかりのチームに加わり、トヨタにとって最初のF1プロトタイプカーである“TF101”を開発。一方でアラン・マクニッシュは翌年に迫ったレースデビューへの準備を行った。2002年の開幕戦オーストラリアGPは、トヨタの歴史において記念碑的な一日となり、ミカ・サロは“TF102”で6位フィニッシュ。トヨタにとってのF1第1戦を、入賞・ポイント獲得という印象的な結果で飾った。
2003年からは、オリビエ・パニスとクリスチアーノ・ダ・マッタがチームに加入。この年のイギリスGPでは、クリスチアーノがパナソニック・トヨタ・レーシングにとって初となる首位走行をした。若いチームはまもなくそのポテンシャルを証明し、オリビエとクリスチアーノの両ドライバーは、共に予選で最高位3番手を獲得した。
2004年シーズンもパナソニック・トヨタ・レーシングは、経験からの学習を続け、将来の成功へ向けた土台を固めて行った。シーズン終盤の2戦には、ヤルノ・トゥルーリが加入。
2005年からは、ラルフ・シューマッハーが加わった。
2人の経験豊かな、GP勝利ドライバーを擁し、チームは順調な進歩を遂げていった。ヤルノ・トゥルーリは2005年のシーズン第2戦となるマレーシアGPで、2位に入り、チームに初の表彰台をもたらした。そして続くバーレーンGPでも同じく2位フィニッシュ。スペインGPでも3位となった。ラルフ・シューマッハーもハンガリーGPで3位表彰台に上り、チームのホームレースである日本GPではポールポジションを獲得した。パナソニック・トヨタ・レーシングはこの年、コンストラクターズランキング4位という、自信に繋がる結果でシーズンを終えた。
チームは前年の勢いを基に、2006年シーズンへと臨んだ。しかし、オーストラリアGPでこそ、ラルフ・シューマッハーの健闘で3位表彰台を獲得したが、その後は厳しいシーズンとなった。改良型の“TF106B”はパフォーマンス面で進化を遂げ、シーズン終盤は、序盤よりも力強くレースを戦ったが、チームはこの年、35ポイントを獲得するに留まった。
高い希望と共に挑んだ2007年シーズンは、改良が進み、特にヤルノが予選で素晴らしい走りを見せ、14戦で予選トップ10入りを果たした。しかし、決勝では両ドライバーの頑張りにもかかわらず、ポイント獲得は困難であった。トゥルーリはアメリカGPで素晴らしいレースを戦い、6位入賞。ラルフ・シューマッハーのこの年の最高位も、ベテランらしい走りを見せたハンガリーGPでの6位であった。チームはわずか13ポイント獲得に終わり、2008年へ向けての大幅な改善を決意することとなった。
その改善は幾つかの形で結果となって現れた。新たなドライバーペアとなったヤルノとティモ・グロックが良い影響をチームにもたらし、トータル56ポイント獲得を成し遂げた。更に安定感の増した“TF108”は、印象的なシーズンを戦うためのベースであり、表彰台への復帰と、獲得ポイントの大幅な増加という2つの目標は、共に達成された。
トゥルーリはオベ・アンダーソン逝去直後のフランスGPで感動的な3位表彰台を獲得。グロックはシーズン前半の着実な進歩の結果が、ハンガリーGPでの2位表彰台として実を結んだ。これらの結果を通じ、チームはコンストラクターズランキング4位を目標として挑んだが、終盤ルノーの猛追を受け、トヨタはランキング5位となった。
続く2009年、ヤルノとティモで参戦。新レギュレーションにあわせて作られた“TF109”はシーズン前テストから好調で、開幕戦オーストラリアではヤルノが、マレーシアではティモが3位表彰台を獲得。第4戦バーレーンGPでは、チーム初となる予選1位、2位でフロントローを独占。決勝では惜しくもタイヤ選択に苦しみヤルノの3位表彰台のみにとどまった。
シーズン終盤にはシンガポールGP、日本GP連続でティモ、ヤルノがそれぞれ2位表彰台を獲得した。また日本GP予選で負傷したティモに変わり、ブラジルGP、アブダビGPのラスト2戦にはサードドライバーの小林可夢偉が参戦した。チームは59.5ポイントを獲得し、コンストラクターズランキング5位でシーズンを終えた。
シーズン終了直後の11月4日、トヨタは2009年限りでのF1からの撤退を発表。トヨタF1チームの活動は8シーズンで幕を下ろした。
パナソニック・トヨタ・レーシング レースデータ
GP出走数 | 140 | 表彰台獲得数 | 13 |
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ポールポジション獲得数 | 3 | ファステストラップ獲得数 | 3 |
総獲得ポイント | 278.5 |
2009年
コンストラクターズ選手権 | 5位 (59.5ポイント) |
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ドライバーズ選手権 | 9位 ヤルノ・トゥルーリ(32.5ポイント) 10位 ティモ・グロック(24ポイント) 18位 小林可夢偉(3ポイント) |
2008年
コンストラクターズ選手権 | 5位 (56ポイント) |
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ドライバーズ選手権 | 9位 ヤルノ・トゥルーリ(31ポイント) 10位 ティモ・グロック(25ポイント) |
2007年
コンストラクターズ選手権 | 6位 (13ポイント) |
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ドライバーズ選手権 | 13位 ヤルノ・トゥルーリ(8ポイント) 15位 ラルフ・シューマッハー(5ポイント) |
2006年
コンストラクターズ選手権 | 6位 (35ポイント) |
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ドライバーズ選手権 | 10位 ラルフ・シューマッハー(20ポイント) 12位 ヤルノ・トゥルーリ(15ポイント) |
2005年
コンストラクターズ選手権 | 4位 (88ポイント) |
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ドライバーズ選手権 | 6位 ラルフ・シューマッハー(45ポイント) 7位 ヤルノ・トゥルーリ(43ポイント) |
2004年
コンストラクターズ選手権 | 8位 (9ポイント) |
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ドライバーズ選手権 | 14位 オリビエ・パニス(6ポイント) 17位 クリスチアーノ・ダ・マッタ(3ポイント) |
2003年
コンストラクターズ選手権 | 8位 (16ポイント) |
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ドライバーズ選手権 | 13位 クリスチアーノ・ダ・マッタ(10ポイント) 15位 オリビエ・パニス(6ポイント) |
2002年
コンストラクターズ選手権 | 10位 (2ポイント) |
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ドライバーズ選手権 | 17位 ミカ・サロ(2ポイント) 19位 アラン・マクニッシュ(0ポイント) |