ナンバー9

犬が狼にもどっていく

コフスハーバー、ラリーコース。走破隊と合流したモリゾウ(豊田章男)は86の調整を静かに待っていた。その横には4シーズン連続で世界を制したマキネン氏がいた。「彼といっしょにクルマをつくっているんだ」とモリゾウは言った。そう、この走行訓練は、クルマの声を聞くという大事なクルマづくりのプロセスの一部なのだ。この世界に同じ道はひとつもない。気候によっても変化する。ラリーという極限の状態でクルマがどういう声をあげるか。道とクルマの関係が研ぎすまされた状態で一体何を感じるか。感覚を研ぎすます。集中する。最初にマキネン氏の助手席に乗る。世界の走りを体に刻む。うなりをあげて何周も回る86を見ているとクルマはもともと野性だったのではないかと思ってしまう。人間に飼いならされて鈍ってしまったものを、徐々に取り戻して行く作業のように見える。犬が狼にもどっていく。土煙をあげてその叫びが山に響く。マキネン氏は厳しい。

彼の走りは引退した今でも超一流だ。助手席に座ると外から見ていたのとはまるでちがう感覚になる。リニアモーターカーにでも乗っているかのようにクルマはすべりつづける。すべてのカーブを重心移動だけで一切の無駄がなくすりぬけてゆく。全身の毛穴がひらく。いっきにTシャツがびしょびしょに濡れる。頭と体がちがう反応をする。野性のクルマをコントロールできるのはほんの一握りの天才だ。でも私たちはこういう野性のクルマをたくさんのテクノロジーで制御して乗っているのだ。狼を犬にして。

モリゾウはガソリンがなくなるまで、予定を変えてまで、何周も何周もそのコースを回った。当然だが、マキネン氏の見せた世界には及ばない。けれどそれを目指す。あの感覚を目指す。至らないポイントはどこか。研ぎすまされた状態でクルマのなかの野性をどうコントロールするか。その訓練は命がけだ。そして孤独だ。ただひたすら体に叩き込む。ここまでする必要があるのかとよく人は聞く。けれどこうしてクルマに対する圧倒的な尺度を自分のなかにつくり出すことは、クルマをつくり、売る人間としてとても重要なことだと信じている。この感覚が、クルマの声をききとる力になる。その力は必ずいいクルマをつくるために必要なものだ。スタッフのひとりが言った。「あの人は本当にガソリンがなくなるまで帰ってこないんだ。次の予定が心配なら、少なくするしかない」。