ナンバー4

ランクルと向き合う決意の儀式

2014.09.28 - 10.07 From Port Headlad to Darwin

ブルームに到着して車両点検を行った。これまでになく鋭い視線と神経を使っているのが傍から見ているものにも伝わってくる。1台1台、丹念に隅から隅までクルマの状態を把握する。クルマに手を触れている間は集中力が途切れない。約3万点あると言われている車両パーツの締結部位。走行性能と、走行安定を確認するため、必要な工具をレンチ群の入った工具箱から自然と選ぶ。どの位の力を入れれば適正なのかは体に染み込んでいる。動きにも無駄がない。ドライバー達の多くが、これまで培った経験を確かめる場として、自分の価値観を広げるため、チーム2の山場となるギブ・リバー・ロードに挑む。

ランクルが暮らしを変えた道

舗装路から、未舗装のダートであるギブ・リバー・ロードに入った瞬間に状況が一変する。前方の土埃による視界の悪さ、小石がカンカンと当たる音、不規則な体への振動。この道は、ランクルが作ったと言っても過言ではない。牧畜業が主産業である隔絶された地域にランクルが登場したのは1958年のこと。生活、ビジネス、旅、あらゆる面において革命を起こしたクルマだったとオーストラリアのスタッフは話した。初日の対向車は40台中32台がTOYOTAの四駆で、途中何台か目にした故障車は全てTOYOTAではなかった。TOYOTAのドライバー達はどう受け止めたのだろうか。ランチタイムにタイヤのパンクが発見され、即座にタイヤ交換が行われる。メンバーそれぞれが暗黙の了解で作業を分担し、あっという間にタイヤ交換が終わった。携帯電話の圏外を走るこの道では、パンクは生命の危機に関わると知る。

パンクすると運転技術でカバーできない

日本のテストコースでは再現しきれていない、長く伸びるダート。コルゲーションによる体の疲労感が全く違うという。雨季には川となり、乾季には舗装された道になるFLOOD WAY。スピードを出し過ぎて進入すると、ランクル200のフロント部分は地面に接触する可能性が高いと分かった。サスペンションが目一杯縮んで底をつくボトミングを避ける為にも、標識に眼を凝らす。走行中、故障車が路肩に停まっていた。立ち寄って理由を聞くと、タイヤがパンクしたのを知りながらも走行したので、フロントサスペンションが壊れたという。修理部品が届く明日まで炎天下の中、路肩で待つしかないようだ。水を差し入れして、その場を後にした。「尖った小石に神経をとがらせれば、ある程度パンクを避けることはできるが、パンクしてしまうと運転技術ではカバー出来ない。だから、現在は一部のクルマにしか装備されていないタイヤの空気漏れを感知することのできる装置がここでは必要かもしれない」。ドライバーの何気ない一言にクルマの明日が詰まっている。

日本にはない土埃

ダートは、突然終わりを告げる。緩やかに静かにクルマが進みだす。ギブ・リバー・ロードを走破した。カナナラに到着後すぐに車両点検を行い、クルマの状態を確認する。1台だけアンダーカバーに亀裂が入っていたが、大きなダメージではない。ものすごい量の土埃がエアーフィルターに付着している。細かい砂の粒子もオーストラリア特有の地理条件のひとつ。日本ではまず見ることができないという。今後の改善課題のヒントになるかもしれない。ギブ・リバー・ロードを走行した数車種のなかで、やはりランクル70が、ドライバーたちにも好評だった。「運転しているという実感があり、走っていて楽しい」という意見が多い。路面からの突き上げられる衝撃もまた運転する醍醐味だという。では上位車種である、ランクル200はというと、「普通に走れている」という感想を耳にした。直進安定性は今回走破に使った車両の中では群を抜いている。この道においては、「誰が運転しても安全かつ楽に走れる」という評価だった。

ランクルが、オーストラリアの”足”となるまで。

かつてランドクルーザーは、トヨタのクルマの質を世界に示すための尖兵だった。世界のあらゆる場所へと派遣され、乗用車輸出のための礎を築く。その役割を担っていたために、ランドクルーザーが頑丈なこと、優秀な道具であることはなにより重要な要素だった。特にアウトバックと呼ばれるワイルドサイドでは、クルマの品質は生死に関わる重要なもの。極端な砂漠と寒冷地以外の世界のあらゆる気候が存在するオーストラリア大陸とランドクルーザーの関わりは深い。1950年代後半、オーストラリアでのランドクルーザーの歴史は一人の男の熱い思いによって始まる。国家的事業と言われたスノーウィーマウンテンの水力発電建設が、その現場だった。

1959年〜60年代初頭に撮影された、ランドクルーザーFJ25。スノーウィーマウンテン水力発電の工事現場は、冬には雪が積もる過酷な環境だった。

石炭採掘の開発などを請け負っていた会社の社長レスリー・シースが、スノーウィーマウンテンの工事現場で1台のランドクルーザーを見つけたのが1957年のこと。レスリーは、建設現場で乗り回すうち、このクルマの性能に惚れ込んでしまう。地下水路の建設の契約を勝ち取ったレスリーは、13台のランドクルーザーを購入することを決めた。12台はすぐに現場に配置され、1台はパーツ取り用に保管された。ここでランドクルーザーは、その性能を遺憾なく発揮する。加えて、トヨタからたった13台のために社員が派遣され、故障の対応に当たった。壊れた部品はすぐに日本へと送られ、新たなパーツで対応する。日本に送られた故障パーツは、徹底的に調べられ、なぜ壊れたのか? どうすれば壊れなくなるのか? 研究材料となった。
スノーウィーマウンテンでの経験から、「ランクルはオーストラリアにとって必要なクルマだ」と確信したレスリー・シースは、トヨタの商用車の独占販売権を獲得する。1959年のこと。当時はまだ日本製品へのバッシングが強かった時代だ。営業担当は直接、農家などのランドクルーザーが必要と思われる場所へと回り、実車を使ってもらうという地道な活動を続けた。同時にサービスのための拠点を全土に張り巡らせ、部品が故障した際に、素早くパーツを届けられたことが、トヨタの成功の基礎となった。壊れた部品はスノーウィーマウンテンのときと同じように研究の対象となり、少しずつ、改良が加えられた。そして1979年にはトヨタのオーストラリア商用車市場でのシェアが、トップに立つ。以降、その座を明け渡したことはない。

1979年、シドニーに完成したシース・トヨタの新しいコンピュータセンターのオープニングで挨拶するサー・レスリー・シース。

ランドクルーザーの本流とも呼べる40系は、1984年に70系へと劇的なモデルチェンジを遂げた。その開発の際にも世界中でのテストドライブが行われたが、中でもオーストラリアは試走の重要なルートであった。何周も何周も、ランドクルーザーはアウトバックを走り、発売された以降も、テストのためのドライビングは止まらない。常に走り続け、道から学ぶことによって、ランドクルーザーは完成度を高めていった。だが、基本的な骨格は1950年代から変わっていない。過度な変更をしないために、あらゆる面において継続性がある。部品もしかり。70形になってからも日々進化しているが、基本的なパーツが合わなくなることはほとんどない。そうやって人々は一生のクルマとして、ランクルを乗り継いでいる。
現在オーストラリアでは、ナショナルパークや警察、鉱山や一部の軍用車など、国の根幹的な仕事を担うクルマとして採用され、圧倒的な信頼を得ている。

スノーウィーマウンテン水力発電計画によって建設されたダムを背景に撮影された、レスリー・シースが初めて使った13台のランドクルーザーFJ25のうちの1台。
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