レーシングドライバー木下隆之のクルマ連載コラム クルマ・スキ・トモニ

人とクルマの、ともすれば手の平から溢れてしまいそうな素敵な思いを、丁寧にすくい取りながら綴っていくつもりです。人とクルマは、いつまでも素敵な関係でありたい。そんなGAZOOが抱く熱く溢れる思いが伝わりますように…。
レーシングドライバー 木下隆之氏


2Lap 「サーキットでの愛情は厳しく思いは熱く…」

「いつでもいいから突然ピットインしてくれるかなぁ。そしてメカニックに『ブレーキトラブルなんだ!』って叫んでほしいんだ」

成瀬弘さんはイタズラっ子のようにニヤッと笑ってボクにそう指示した。ニュルブルクリンク24時間レース直前の、現地での実践テストの時である。

トヨタのトップガンである成瀬さんは、このプロジェクトの総指揮官役を担う一方で、メカニック達の教育係も兼務している。

「このプロジェクトは、人材育成でもあるからね。突発的な出来事にも冷静に対処できるかを確認したいんだよ」

そういって“疑似緊急ピットイン”の狙いを説明した。

成瀬さんは御年67才。矍鑠(かくしゃく)としていて肉体年齢は20歳ほども若い。いまでも、あの過激なニュルブルクリンクのコースをプロのレーシングドライバーと遜色ないタイムで周回する。今昔にわたって、トヨタ車の開発を主導する立場にありながら、今年もドライバーとしてエントリーする。500馬力オーバーのレクサスLF-Aで挑むというんだからそりゃもう、テストドライバーのレベルを超越したスキルの持ち主。トヨタの重鎮であり御意見番であり、神のように君臨しているのである。

それでいて、仕事中の成瀬さんは相当に厳しい。特に、若いメンバーにとっては、父親よりも年嵩の人であり、人格、見識、技量、経験が際立っており、教育姿勢に一切の妥協はない。雰囲気はちょっとした体育会自動車部の趣であり軍隊のよう。だとするとさしずめ、後輩に容赦ない主将か戦線で陣頭指揮をとる軍曹といった雰囲気なのだ(?)。ボクもずいぶんと親しくさせていただいているからもう驚かないけれど、当初は、孫ほど年の差のあるメンバーへの叱咤の怒声には身をすくめたものだ。

今回ニュルブルクリンク24時間に参戦するこのチームは、日頃トヨタ車に携わっている開発メンバーで構成されている。ピットマンは開発車のメカニックの中から選抜された精鋭であり、成瀬さんの期待を背負う選良だ。そんな彼らが成瀬さんの厳しい試練に立ち向かうというわけなのである。

「さっさとタイヤをはずさんかい!」

ビットに怒号がとびかうことも珍しくはない。

「ぼーと眺めてたらあかん!」

手こそ上げることはないが、思わず身をすくめたくなることも少なくない。

もっともそんな厳しい言葉もまだ優しい方で、口角泡を飛ばしながら、

「あほ、たわけ!!」

が飛び出したらテンション最高潮。当事者でなくとも思わず手を止めて怯えるという存在感である。

ただ、指摘は鋭く的確だし、そもそも経験の厚みに厳然たる差がある。なによりも叱咤は愛情の裏返しであり、激励である。激を飛ばしても跡に引きずらないサバサバした性格だ。(若輩者のボクが口にすると叱られそうだが・・・(笑) )

「トヨタのクルマはまだまだ全然だめだ。もっと良くせなあかん!」

歯に衣を着せずに声大きく言い放っても真摯に受けとめられるのは、“トヨタの味探し”に尽力を注いでいることを皆が知っているからだし、誰よりもトヨタを愛しているからだろう。

プライベートはいつも笑顔だし、豪快に笑う。仕事を離れればみんなで楽しそうに食事を囲むし、休日には共に旅行もする。メンバーからは“おとうさん”だったり“オヤジ”だったりと親しみを込めて呼ばれている。誰もが神と仰ぎながらも、心ではつながっている。人望と敬愛を一身に集めた太い柱なのである。そんな重鎮と精鋭部隊で、このプロジェクトは構成されているのである。

さて、そんなお父さんの指揮のもと、息子や孫達が世界一過酷なニュルブルクリンクに挑むわけなのだが、件の“疑似緊急ピットイン”は、雷が落ちることもなく無事消化した。

それにはカラクリがあった。

「そろそろ、オヤジさんがやる頃だと身構えてましたから・・」

「おそらくタイヤかブレーキのトラブルだと予想してましたよ」

さすがに同じ釜の飯を食いつづけている精鋭にとっては、成瀬さんの考えはおおかた推察できるほどに学習しているようで、堂に入ったものである。

先回りして心の準備を進めていたという。慌てず騒がず、的確に作業を進められたのは、成瀬さんの行動パターンや思考を習熟している証拠である。粗相なくこなすメカニックの動きを確認したその目は、一人前に育ちつつある子供達を微笑ましく見つめる父親のそれのようだった。

ただし、その日は“別”の展開が待ち受けていた。作業は無事遂行された。そこまでは良かった。小さなその事件はドライバーチェンジのときに起った。

実は今回レクサスLF-Aは2カーエントリーである。ともにカラーリングは共通しており、ゼッケンが下一桁が異なるだけだ。その一台である92号車にはボクが乗り、成瀬さんはもう一台の93号車でエントリーしていた。テストは2台並行して進められていた。

疑似緊急ピットインを終えてからぼくはメニューどおりの連続周回を続けピットに戻った。一旦マシン調整をして、もう一度コースに復帰する段取りになっていた。成瀬さんが乗るもう一方の93号車とは別のメニューを進めており、まだコース上にいた。

ボクはピット前にマシンを止めた。コクピットから飛び降りた。作業の合間、小休止をするためだ。エアジャッキによってボディが浮き上がる。タイヤが外される。メカニックがボディの底に潜り、各部の確認作業が進む。

するとそこに、ヘルメットを被ったあるひとりのドライバーがやってきた。そしてそのドライバーはおもむろに、いまボクが走ってきたばかりのマシンに断りもなく乗り込もうとした。それを確認したスタッフの動きが止まった。おそらく皆の頭の中には無数の「?マーク」が点灯していただろう。

「誰?」

「知らん!」

「どいつだ?」

「わからん!」

「えっ?」

「・・・・」

「もしかして・・?」

「そのー、もしかして、では・・・」

皆が事態を把握するまでに、数秒が流れた。スタッフ全員の唖然とした視線が交錯する中、躊躇することなく、体を折り曲げながら92号車に乗り込もうとしていたのは、本来93号車に乗るはずのあの御大、つまり父親であり鬼軍曹であり神であり一切の口答えを許さないはずの成瀬さんだったのである。

「どうする・・・?」

「誰か、制止させろよ」

「無理だよ」

「怖いよ」

そんな言葉が聞こえたような聞こえないような・・・。

遮る者は誰もいない。

ある一人は異変に気づきながらもシートベルト装着を手伝ってしまう。乗り込みのサポートは、長年の軍隊生活で染み付いた習慣だ。やはり同様に不自然を感じながらもシューズの底についた汚れを拭いてしまう若いスタッフ。体育会生活の慣れとは恐ろしい。頭は異変にあらがいながらも、体が無意識に反応してしまう。成瀬さんの行動を制せるほど勇気のある者がその場にいるはずもなく、立ちはだかるなどもってのほかだ。まして、首根っこをつかんで引きづり降ろすなど自殺行為に等しいことは誰もが理解している。

成瀬さんはクランキングを始めた。瞬時に火が入った。ギアが1速に送り込まれた。

その時になってようやく、ある一人のメカニックが覚悟を決めたかのようにあらんかぎりの勇気を振り絞り、運転席に歩み寄った。

「あのー、もしかして、クルマが、ち・が・う・の・で・は・・・」

空気がピンと張りつめた。静寂がピットを支配した。その直後に響き渡るであろう怒声に身構えた。

・・・・・・・。

「あれれ? ボク、間違えちゃった?」

成瀬さんは自らの勘違いに所在なさげに振る舞い、頬をあからめながらヘヘヘと照れ笑いを浮かべた。子犬が小便をしているときのようなばつの悪そうな顔をした。緊張がホロホロとほどけ、あたりが安堵のため息に変わった瞬間である。

ただただ立ち尽くし見守るしかなかったボク達は、トヨタ自動車最大の勇者に尊敬の視線を送った・・・。

その晩の事だ。酒が入り、食事の席が和やかになった頃、その日起ったその事件が話題にのぼった。

「成瀬さん、あの間違いも突発事態の訓練だったりして?」

と、意地悪なボク。

「違うわ、ただ間違えただけ」

と、照れ笑いの成瀬さん。

「カラーリングが同じだと、混乱してしまいますよね」

「紛らわしいわ!」

「オレのクルマ間違いに気がついていたのか?」

「ええ」

「いつから?」

「最初からです」

「誰が、だ?」

「みんなです」

「全員が、か?」

「はい、全員が・・・」

「だったら先に言わんかい! あほ、たわけ!!」

この時の決めゼリフは、爆笑の起爆剤になった。

成瀬さんが神であり選良ならば、そのDNAを受け継ぐ若いメカニック達は、トヨタの宝である。このビックプロジェクトの最大の強みは、レクサスLF-Aの高い戦闘力でも技術力でも、ましてドライバーのテクニックでもない。厳しいながらも心の底のある一点で結ばれている強固な一体感にあるのだ。