「市内観光?だったらサイクリング車を準備しましょう」
ホテルのフロントマンが気さくな笑顔を浮かべながら、鮮やかなブルーの自転車を僕の前に立て掛けた。
「サイクリング車ですか?」
「ええ、なにか問題でも?」
「ノット、モーターサイクル?」
「イエス、バイシクルです」
オランダでのタイヤ開発テストを終えた翌日のことだ。帰国フライトまでの自由な半日をアムステルダムの市内散策をして過ごすことに決め、フロントマンに気の利いた観光スポットを尋ねていたのだ。僕が描いていた計画は、レンタカーでの観光か、もしくはバイクで気ままな散策を楽しむかだったのだが、フロントマンはさも当然とばかりに、サイクリング車での観光を提案したのである。
「アムステルダムの観光には、サイクリング車が便利です」
そんな言葉に見送られ、フラフラと当てもなくペダルを漕ぎはじめた。しばらくすると、フロントマンの提案が正解だったことがわかるのだ。
ともかく感心するのは、アムステルダムには自転車が走りやすい環境が整っていることだ。たとえば車道は、自動車用と自転車用と歩行者用がはっきりと区分されている。道の外側が「歩道」であり、中央が「車道」だ。その間が「自転車道」となる。場所によっては、路面が色分けされており迷うことは少ない。それぞれのレーンを縁石で隔てている場合もあるので、だらだらと混走することもない。お互いの領域を侵すなというような威圧でもあり尊重でもある。人とクルマと自転車が、それぞれ独立して市民権を得ているのだ。
日本の場合、自転車は「人が歩く歩道」と「クルマが走る車道」のどちらかに紛れ込み、遠慮がちに走ることになる。だからどっちからも煙たがられる。歩道では速度が速すぎるし、車道ではその逆だからだ。このところの日本のサイクリングブームは微笑ましいのだが、やはり、日本の道路整備は自転車の存在を無視して成り立っていることを実感させられる。共存するには流れが異なる。ところがアムステルダムでは、自転車道は自転車の速度で走ることが許さているわけで、気兼ねなくサイクリングを楽しむことができるのだ。自転車専用道は、隣国ベルギーやドイツの国境まで伸びているというから恐れ入る。
アムステルダム市民での自転車所有率は、1.1台だという。日本の倍だ。1人1台以上を持っているわけで、統計によると世界一だという。あの中国よりも多いのだ。
週に3日以上、片道10km以上を自転車通勤すると、所得税が年間3万7千円控除されるシステムでもあるという。国が自転車促進をこれほど後押ししている例も珍しい。
もともとオランダ国土は、海抜0m地帯の平地である。特にアムステルダムは、海水の浸入を防波堤で塞き止めて成り立っている都市だ。埋め立てでできた街である。運河が街を縦横無尽に貫いているのは必然であり、あの風車は、街を浸水させようとする海水を汲み出す必要から発達したものだという。つまり、街が平坦だから自転車の移動に都合がいいし、海面の隆起は国土の沈没に等しいわけで、温暖化への警戒心が強い。おのずと環境意識が高くなり、ゼロエミッションビークルの代表である自転車が発達するのも当然なのである。
ホテルを発ってから30分ほどで、運河が取り囲むアムステルダム市中についた。フラフラと当てもなく散策をはじめ、ハッと気になった店の前で足を止めた。都合良く、駐輪のためのスペースが目につく。施錠用のバーもある。自転車天国には違いないのだが、自転車泥棒天国でもあるらしく、盗難件数も多いと言う。施錠は必須らしい。
慣れぬ街なのに、ことさら緊張することなく走り回れる。交差点ではご丁寧に、自転車用の信号機も設置されている。歩行者を気遣い縫って走る必要もなく、クルマとの速度差に怯える必要もないのだ。自転車が普及するのも道理なのである。
実はこれ、クルマにとっても実に都合がいい。自転車専用道があるということはつまり、車道はクルマ専用道となるわけで、体むき出しのサイクリストの抜きざまに緊張しなくてすむ。速度が乱されることもない。クルマはクルマで自由に走る権利を得ることでもあるのだ。
快適な市内観光を終えてホテルに戻り、件のフロントマンに空港行きのタクシーを呼んでもらった。帰国のためのフライト2時間半前のことだ。
「いかがでした、アムステルダムは?」
「たしかに自転車で走るには都合がいいことがわかったよ」
「それはなによりです。でも、クルマにとってもいいんですよ。郊外が渋滞することは多くありません。30分あれば空港に着くでしょう」
オランダの主要産業はチーズや牧草などの酪農であり、チューリップや花弁などの園芸業だという。自動車産業は無いに等しい。だというのに、交通システムに関しては、日本より魅力的な環境だと思えた。
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【編集部より】
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