レーシングドライバー木下隆之のクルマ連載コラム クルマ・スキ・トモニ

人とクルマの、ともすれば手の平から溢れてしまいそうな素敵な思いを、丁寧にすくい取りながら綴っていくつもりです。人とクルマは、いつまでも素敵な関係でありたい。そんなGAZOOが抱く熱く溢れる思いが伝わりますように…。
レーシングドライバー 木下隆之氏


36Lap 夢は平等に与えられるもの…

虚弱なT君、富める国アメリカを目指す。

PCの中で雑然と溜まっていた写真を整理していたら、懐かしい記録を発見した。7年前、先輩の福山英朗さんがNASCAR最高峰のウィンストンカップ(現:スプリントカップ)に挑戦することになり、ノースカロライナ州シャーロットに応援にいった。そこで出逢った1人の青年との淡いスナップ写真を見つけたのである。その青年の名を、ここでは仮に『T君』としておく。
 T君は、東洋人初のウィンストンカップドライバーとなった福山英朗さんに憧れ、単身アメリカまで武者修行に来ていた。将来の夢は「ウィンストンドライバー」だと躊躇なく口にした。もともとモータースポーツには縁がなかったそうなのだが、偶然に観たNASCAR日本開催に強い衝撃を受け一念発起して、不眠不休のバイトを開始した。そして、半年間に蓄えた300万円を握りしめ、アメリカ便に飛び乗ったというのだ。
 当時はたしか19歳だったから、若気の至りというにはいい年齢だ。

NASCAR参戦の前の道は、たしかに遠かった?

NASCARのチームが集結している聖地シャーロットは、アメリカ大陸の東にある。ニューヨークから南下し、フロリダのほぼ中間地点にある。西海岸のロサンゼルスからいえば、正反対に位置する。というのにT君を乗せた航空機はまず、太平洋を渡ってすぐのロサンゼルスに降り立った。そこからなんと、北米大陸を“自転車”で横断し、はるばる数千kmの砂漠を走ってシャーロットに辿り着いたというのだ。「NASCARを夢見る青年」というよりもむしろ、「アメリカ自転車1人旅」だとか、「無鉄砲青年6000km珍道中」にすれば、ドキュメンタリー小説の1本も書けそうである。
 空路ではなく「自転車放浪記」を選んだ理由をT君に聞くと、「航空賃が安いロス便のほうが節約できるから…」と答えが返ってきた。どこか論理が破綻していそうだが、ともあれ本人は大真面目なのである。
 もっとも、その破滅的な行動力とは裏腹に、態度は控え目であり、基本的に無口である。クラスでも特に目立つことのない生徒、といった雰囲気なのだ。食生活が悪いのか、もともと内蔵が弱いのか、紙のように体が薄い。小突いたら折れてしまいそうに虚弱なイメージである。そして紙のように白い。少なくとも「夢に邁進する熱血漢」でも「アリゾナの砂漠を横断した男」でもない。とてつもない行動力の持ち主なのだが、『松岡修造』だったり『戸井十月』とは対極のルックスなのだ。

憧れのマシンがこれ?


これがT君の愛車。一応「レーシングカー」です。一応「走ります」

そしてここからが「NASCARを夢見る青年」の本題なのだが、T君がシャーロットに辿り着いてまずとった行動は、NASCARマシンの購入である。アパートメントを借りる前であり、しかもアルバイトに就く前に、レーシングチームを訪れているのだ。「クルマがなければ戦えませんから…」とは彼の弁。「不動産屋さんが先だろ」というツッコミすら、猪突猛進型の彼には意味をなさないようなのである。
 そして、彼が手にしたマシンがこの写真。マシンというより、解体屋でプレス裁断されるのを待つ鉄屑、といった風情である。NASCARマシンはオーバル専用だから、左右の車高を違えてセッティングする。つまり、その傾きは勝つための仕様なのか、事故でひしゃげてしまったのか、いや、おそらく後者なのだろうが、ともかくまっすぐ走れる気配がしない。だがそれでもT君にとっては、憧れのクルマなのである。

絶大な人気を誇るNASCAR!


これはNASCAR最高ネスクテルカップチームのファクトリーです。平日でも、観光バスが大挙して訪れています。T君の夢の先はここです。

NASCARが数あるアメリカンモータースポーツの中でも、もっとも人気が高いのは言うまでもない。インディカー・シリーズやアメリカン・ル・マン・シリーズよりもだ。しかも、もっと枠を広げてアメリカンスポーツの人気トップ3にランクされていた。1位はNFL(アメリカンフットボールのプロリーグ)であり、2位がNBA(バスケットボールのプロリーグ)であり、3位にNASCARだ。4位がMLB(メジャーリーグベースボール)だというから、いかに人気スポーツとして市民権を得ているかが想像できるだろう。そのNASCARの頂点に位置するのがスプリントカップ。およそ50名ほどの精鋭が戦う。平均年俸1000万ドルは下らないだろう。成功の文字がキラキラと瞬く。
 ただし、NASCARに感心するのは、その熱く激しいレース展開でも、法外な報酬額でもない。スポーツとして正しく市民権を得ていることだ。アメリカンモータースポーツのピラミッドの頂点がスプリントカップである。その下部に、ネイションワイド・シリーズやキャンピング・ワールド・トラック・シリーズが控える。NASCARと名のつくレースは、全米各地で2000にも及ぶレースが開催されているというから驚く。スプリントカップを頂点に、それこそ近所の寄り合いのような競技会も組織されていることになる。
 プロ野球がプロ予備軍として、実業団・大学野球・高校野球と流れ、さらに中学校・小学校が控えている。逆にさかのぼっていけば、近所の友達で作った“ホワイトジャイアンツ”からPL学園を経由して、読売ジャイアンツに達するルートが確立されているわけで、つまり、野球を真剣にはじめればやがて頂点に行き着く。もちろん駒を進めるのは実力次第には違いないが、すそ野が広いピラミッド型が形成されているのだ。それと同様にNASCARも、まるで富士山のように安定感のあるピラミッド型なのである。

「アメリカ版の戸越商店街野球大会」


T君憧れのコクピットです。これでも走るのですから、クルマってものはつくづく丈夫なものです。錆びたステアリングシャフトは、折れることはないのでしょうか?


ここが1周19秒で周回できるサーキットです。規模は小さいのですが、こんなサーキットがそこここにゴロゴロしているのです。羨ましい…。

ではT君が戦っているのは…?というと、本流からややはずれた「アメリカ版の戸越商店街野球大会」といったところか。多摩川河川敷で週末早朝にノックを受けている肉屋の次男坊、というのが彼のおかれた立場である。つまり、そこからNASCARスプリントカップドライバーで巨万の富を築くには、奇跡が何度か連続して起らないとならないほどのステップを踏んでいかねばならない。
 たしかに先は遠い。だが、彼が思いつく手段はそれしかなく、まずは戦うことを選んだのだ。というより、その遠い延長線上には間違いなく頂が見えていることが幸せだ。それは、はるか遠くに輝いているには違いないけれど、少なくとも見えている。ときより雲に隠れはするけれど、晴れた日には見えているのだ。ほとんど計画性のないT君でさえ、すそ野から一歩を踏み出すことが可能なのだ。「大陸横断青年」が「NASCARドライバー」になることも、夢ではないのである。そもそも魑魅魍魎(ちみもうりょう)としていながら、その道筋すらはっきりしない日本のモータースポーツ界よりも、はるかに希望に満ち溢れていると思える。
 僕がシャーロットに滞在中の日曜日、T君がレース参戦するというから応援にいった(というより、草野球がそうであるように、毎週末必ずどこかでレースが行われている)
 オーバルにはたしかに違いないが、競輪場程度のサイズであり、1周ラップタイムはわずか19秒。ゴールするのが早いか、目が回るのが早いかの競争のように思えた。それでも、スタート直前には牧師による祈りが捧げられ、すべてのドライバーが胸に手を当てて目をつむる。
 マシン性能は様々だから、その成績がそのままスキルの明かしにはならないのだが、トレーニングになるのはたしかだ。プロ野球選手を夢見る少年が必死にノックを受けている姿とイメージが重なった。草の根のモータースポーツがそこにはたしかにあるのだ。
 接触痕も痛々しいマシンを前にこう言った。
「修理しないの?」
「先週、クラッシュしたばかりですから…」
「修理が間に合わないのか?」
「いや、今週もまたクラッシュするはずですから…」
 あの接触痕は、彼のスキルアップの証しだったのかもしれない。
 その後のT君はというと…、まだまだ夢に向かって奮闘中という話が風の便りに届いてきた。誰にも平等に夢を見る権利が与えられているアメリカが羨ましい…。

キノシタの近況

ビニールプールを片付けるタイミングを失った。秋のたよりが訪れても、「もう一度くらい夏日が来るはず…」との淡い期待を抱いているからなのだ。プールを畳むことはすなわち夏との別れを決断することを意味するわけで忍びない。
 というわけで、今でも我が家の庭には、小さなビニールプールが張ってある。ほとんど「池」と化しているけれど…。
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【編集部より】
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