僕の大先輩である自動車評論家のM氏が、乗馬をはじめた。
日頃から和服で会合に現れたり、丁寧な手書きの年賀状をしたためたりと、個性的なセンスが際立つ方だ。
その一方で、ドライビングにも強いこだわりを持つ。実際に過去に、フォーミュラーレースを戦っていた経歴がある。僕のドライビングにも的確なアドバイスをくださっているのだ。
そう、そんな走りに一家言あるM氏が乗馬をはじめた。
となれば、こんな話題で盛り上がるのは道理なのである。
「鞍ひとつで、馬の動きがまったく違うんだよ。それには驚いたよね…」
「鞍?」
「そう、馬に背負わせる鞍のことだよ。クルマで言えば、バケットシートになるのかな…」
東京から馬場がある千葉県まで、週に1度の頻度で通っているらしい。
「なるほど、バケットシートはたしかに大切ですよね。体の形状にフィットしていないと、ドライビングが乱れますからね」
僕らがフォーミュラーカーに乗る場合、自分の体型にピッタリの特注シートを造る。適当なサイズのシートを括りつけ、レース本番で着用するレーシングスーツを着たまま着座する。そしてシートと体の隙間に発泡ウレタン材を流し込む。それは膨らみ、やがて体型そのままに固まる。1ミリの狂いもない。レーシングスーツの縫い目さえ再現されるのだ。これがレース用のシートである。
「ただし、はっきりいえば、レースカーのバケットシートとは重要度の次元がまったく違うんだよ」
「バケットよりも?」
「そうなのだよ。バケットシートの目的はまず、体をきっちりホールドすることにあるよねぇ。だけど乗馬の鞍は、ステアリングの役目もするんだ」
「ステアリング?」
「手綱はあくまで補助。体の重心を前後左右に移すことで馬にメッセージを伝えるんだよ。それがままならないと、馬はヘソを曲げる。てこでも動かない(笑)」
たしかに乗馬にはステアリングとおぼしき役目をするものは手綱しかない。しかも一方は、生き物である。金属でタイヤとつながっているステアリングとはまったく別物だ。ステアリングは切れば動くが、手綱だけではてこでも動かないだろうとは想像がつく。
「エルメスが馬具メーカーから発展したことは有名だよね」
「高級ななめし革は誰もの憧れですね」
「エルメスが高価なのは乗馬の世界も同様。だから、裕福な人しか使えないんだよ」
「さぞかし、使い心地がいいんでしょうね」
「たぶん、そうなんだと思う」
「たぶん?」
「1度だけエルメスの鞍を使わせてもらったことがあるんだけど、これがとんでもなかったんだ。馬はいうことを聞いてくれないし、やっぱりてこでも動かない。まったく使い心地が悪かったんだ」
「評判はいいのに?」
「おそらくこういうことらしい。まず僕と馬の体型に合わせていない。だから僕も馬も戸惑ってしまった。しかも、その良さに僕が慣れていないんだ。乗り手と馬を選ぶあたりが高級の証しだろうね」
なるほど…である。レース用のバケットシートにも善し悪しがある。だが、自分にフィットするものを選べば、クルマは選ばない。86だってレクサスLFAだって、いいものはいい。ダメなものはダメ。86で良くてLFAでは使いづらい…なんてことはないのだ。鞍は生き物と生き物を結ぶ唯一の接点なのである。
そのとき、小さな疑問が芽生えた。
なぜレース用のバケットシートは、本革製ではないのだろう?カート用は軽量肉薄のファイバー製である。ツーリングカーになるとファイバーの骨格をウレタンで包み込み、一般的には強化ポリエステルを表皮とする。
ロードカーの世界になると、高級の証として本革製に人気があるのだが、滑りやすいといった不安もあるし、競技の宿命から吸水性も必要なわけで、たしかに本革製よりもポリエステルが理にかなっていそうだ。
だとすると、なぜ乗馬の鞍は本革製で、ポリエステル製が普及していないのだろう。
「乗馬も、汗かくよ」
M氏はそう言う。疑問は膨らむばかりだ。
「伝統を重んじる競技だから、ポリエステルってわけにはいかないんだろうね」
たしかに、派手派手のポリエステルでは興醒めだ。
「もともと馬に乗るわけだから本革が基本だよね。これが不思議なもので、革が体に馴染んでくると、人馬一体になれるのだ」
「人馬一体」「人車一体」。スポーツカーが長年追い求めてきたテーマである。
馬に変わる乗り物としてクルマが誕生したのが、いまから百数十年前のことだ。だがそれは生き物ではなく機械だった。だというのに我々は、機械と感情の行き来を求めている。ドライビングはそんな崇高な次元に足を踏み込もうともがいている。馬を完全に凌駕した今、オリジンへの回帰を模索しようとしているのが興味深い。
馬に憧れる機械は今、電気仕掛けになりつつある。
トヨタのITを統括する友山茂樹常務は、たしかこう発言して僕を感動させた。
「我々は事故のまったく起こらないクルマを求めている。その一方で、クルマを操る喜びをも追求しています。馬同士が衝突することはない。だが操る喜びを備えていますよね」
鞍に、我々の答えが隠されているような気がしてならない。
なんだか男性の気持ちわかるんだよね。男が助手席じゃカッコ悪いって発想。
最近の「草食系男子」「ゆとり世代」「さとり世代」にあって、いまだにそんな考えを持つ男性がいることに、男キノシタとしてはちょっとホッとしたり、残念に思ったり…。複雑な心境です。
ただ一方で、女性の運転するクルマの助手席でくつろぐ男性を見かけることが増えたような気がするよね。それはそれでカッコイイ。
ただし条件がある。
男性が心底からくつろいでいること。安心してステアリングを任せていることが条件です。そのためには、のち子さんが、颯爽とした運転スタイルでいることが重要です。余計な心配でしたね。失礼しました。
ともあれ、男女問わず、運転はスマートであることが重要だよね。それだったら男性でも女性でもCOOLだよ。
【編集部より】
木下アニキに聞きたいことを大募集いたします。
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