ニュルブルクリンクでのクルマづくりの原点は
スープラから始まっている

ニュルブルクリンクで初めてトヨタ自動車として
本格的に開発された4代目スープラ

トヨタがニュルブルクリンクを初めて訪れたのは、今から40年以上も昔、マスタードライバーだった成瀬弘が28歳の時にセリカ1600GTがニュル6時間耐久レースに参戦した際に、日本から技術指導に行った時だった。
彼はニュルを初めて走った時、「とんでもない所に来てしまった」と思ったのと同時に「ここは開発の場として使える」と直感したと言う。そして1980年台に入り、4代目スープラ(A80)が初めて本格的に開発の場として活用された。

マスタードライバーである
成瀬が
基本性能に徹底して
こだわったA80

スープラは1978年にセリカの上級モデルとして登場したが、世代を重ねる度にスポーツ性能を引き上げてきたが、4代目はトヨタのフラッグシップスポーツとして恥じないポテンシャルを備えるために、チーフエンジニアの都筑功率いる開発チームは基本性能に徹底してこだわった。もちろん評価ドライバーは成瀬が担当した。

スープラが登場すると自動車メディアはこぞって日本のサーキットでテストやタイムアタックを実施した。ハイパワーのFRながらもコントロール性の高さ、ドライバーを裏切らない懐の深さは高く評価されたものの、タイムはライバルのスポーツカーほうが速かった……。しかし、そんな評価は成瀬にとってはどうでもいい事だった。

「日本のサーキットで勝って喜んでいるレベルじゃ本当の味はでません。日本のサーキットではクルマの性能の10あるうちの1つが見える程度ですが、ニュルは10全てが見えてしまう。だからごまかしがきかない。スープラはスピード領域が高い所に行けばいくほど良さが出て来ます。ヨーロッパに来るとスープラはホント凄いから」。

その後、スープラは改良を行ないながら熟成されていったが、2002年に惜しまれながらも生産終了。しかし、社内では現役で社内訓練車として活用された。もちろん、社長の豊田章男もこのスープラでドライビングのイロハを学んだ一人である。

トヨタの業績が上がるにつれて、スポーツカーの数は減っていき、2007年にMR-Sの生産終了でスポーツカーラインアップが完全に消えた。効率や業績、数字だけを追い求めていくと「スポーツカーは不要」と言う考え方は正論である。しかし、自動車メーカーとして大事な物も消えていった。

「GAZOO Racing」の発足と
ニュルブルクリンク24時間耐久レース

そんな状況に警笛を鳴らしたのは、成瀬と当時副社長だった豊田だった。この二人を中心に2007年発足したのが「GAZOO Racing」である。以前から成瀬は「技術を伝承し、人材を育成する場としてレースは最高の舞台。大事なことは言葉やデータでクルマ作りを議論するのではなく、実際にモノを置いて、手で触れ、目で議論すること」と語るが、そのステージとして選ばれたのが、ニュルブルクリンク24時間耐久レースだった。

ニュルブルクリンク24時間耐久レースのDNAが受け継がれた「LFA」と「86」

その一方で、トヨタ2000GT以来のコーポレートを象徴するスーパースポーツのプロジェクトが進められていた。レクサスLFAである。開発途中のプロトタイプでニュルブルクリンク24時間耐久レースへ参戦を行い、その経験やノウハウは量産モデルへフィードバックされた。
この流れは2013年に登場したFRスポーツ「86」でも活用された。その中でもスペシャルバージョン「86 GRMN」は、2014年ニュル24時間レースでクラス優勝したレーシングカーのロードバージョンとして開発。86GRMNは100台限定だったが、その中の技術やノウハウの一部、ボディ剛性や走りの味付け、更にはパワートレインなどが量産仕様のKOUKIに受け継がれ、そのKOUKIに86GRMN譲りのアイテムをプラスした86GRと、ニュル24時間レースのDNAは市販モデルに直接的に受け継がれている。
(詳細は「LFA、86、そしてGR その進化の過程」)

「スープラ復活」への決意

2013年1月、トヨタとBMWグループは協業に関する正式契約を締結。その内容の中に「スポーツカーの共同開発」があった。検討初期からミッドサイズFRスポーツカーの企画だったが、豊田を含めてその想いは「スープラの復活」だった。豊田はニュルの運転訓練中に成瀬からこう言われた。
「ドイツメーカーを見て見ろ。みんな開発中の新型車でニュルを走っている。トヨタがここで勝負できるクルマは、生産の終わった中古のスープラしかない……」。豊田はその言葉が忘れられず、スープラの復活を決意した。

受け継がれるDNAとスープラ

チーフエンジニアに任命されたのは、86を担当していた多田哲哉だ。多田とスープラには繋がりがあった。当時電気系のエンジニアだった多田を商品企画へ呼び、クルマ造りや開発のイロハを教えたのが、4代目スープラのチーフエンジニア・都筑だったのだ。
評価ドライバーはTME(トヨタモーターヨーロッパ)在籍のヘルヴィッヒ・ダーネンスが担当。彼は成瀬に直節指導を受けた最後のドライバーの一人で、4代目スープラの経験・知見はもちろん、成瀬の思想やトヨタの味をシッカリと理解している。
一方、日本サイドも成瀬の意志を受け継いだ凄腕技能養成部の矢吹久が担当する。矢吹は「ここまで走り込んだクルマはトヨタ史上初めて」と語るほど、発売前から欧州はもちろん、北米や日本の一般道で走り込みが行なわれた。もちろん、世界の道が凝縮されているニュルでも走り込みが行われた。

ニュルブルクリンクで行われる
新型スープラの最終評価

スープラを開発するGRカンパニーのプレジデントである友山茂樹は、昨年のニュル24時間レースで「過去にLFAも86も発売前にニュルでの卒業試験(=VLN参戦)を行なっていますが、次期スープラは?」と言う自動車メディアの質問にこのように答えた。
「ニュルを走り最後に『OK』のスタンプを押すのがモリゾウ(=豊田)である必要がある」
その言葉通り、昨年10月に開催されたニュルブルクリンク耐久シリーズ第9戦(VLN9)にスープラは参戦。この時、ドライバーとして参戦した豊田は心の中で成瀬にこう伝えた。

「成瀬さん、ついに新型スープラでニュルに来ました」。

Story of GR Supra