レーシングドライバー木下隆之のクルマ連載コラム

172LAP

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サンフレッチェ広島 森保監督

2016.5.24

森保 一(もりやす はじめ)氏。1993年Jリーグ発足時、サンフレッチェ広島で現役選手としてプレー。2012年、同チーム監督に就任。

森保 一(もりやす はじめ)氏。1993年Jリーグ発足時、サンフレッチェ広島で現役選手としてプレー。2012年、同チーム監督に就任。

「只静かにプレーを分析するだけ」

 Jリーグのサンフレッチェ広島は2015年、圧倒的な強さでJ1チャンピオンに輝いた。元日本代表の森保一が、監督に就任してからの4年間で3度目の王者である。
 僕はサッカーに関しては、一ファンのレベルを出ないが、それでもサンフレッチェ広島の躍進の原動力がどこにあるか想像がつく。「森保一」監督の采配が、けして資金的に潤沢ではないチームを常勝チームに育て上げたことに疑いはない。

 日本プロサッカーリーグ、Jリーグが発足したには1993年。その年を境に、日本は空前のサッカーブームに沸いた。川崎ヴェルディ(現 東京ヴェルディ1969)、横浜マリノス(現 横浜F・マリノス)、鹿島アントラーズ、浦和レッズといった強豪チームは多くのスター選手を抱え、ピッチだけではなくバラエティ番組にも出演。日本中がサッカーに熱狂する原動力となった。
 ワールドカップという存在が僕らの意識に深く刻まれることになったのもこの頃。日本代表選手になることが栄誉とされ、日の丸を背負って世界に挑む姿に、我々日本国民が感情移入したものだ。

 Jリーグブームの主役に躍り出たのは、ルックス実力とも秀でたスタープレーヤーだった。キングカズを頂点に、ラモス瑠偉、武田修宏、海外からはアルシンドやジーコがやってきて、ブームに油を注いだのである。彼らのうちの日本国籍を持つプレーヤーは当然のように日本代表に招集され、僕らのハートを掴んだ。
 一方で僕が森保一という存在をはじめて知ったのは、サッカーブームが訪れてからしばらくしてからだったと思う。日本代表の監督になったハンス・オフトが、守備の要であるディフェンダーに彼を招集したことがきっかけだ。
 だが当初僕は、森保が日本代表に呼ばれる理由が理解できなかった。キングカズや武田のように、前線でボールに絡み、攻撃的なサッカーをするのとは対象的に、森保という選手は地味だった。ボールに絡むことなく、ゆえにテレビにも映らない。少ないインタビューの受け答えでも、派手なコメントもなく只静かにプレーを分析するだけだった。言ってみれば、華がなかったのである。

「まさに職人。プロ中のプロ」

 森保一は、1968年生まれ。ウィキペディアによると、長崎日本大学高校でプレーをし、山梨国体選抜に選ばれるも、選手権大会などの出場経験はないという。
 Jリーグ発足前の日本サッカーリーグのマツダSCに入団するも、当初はサテライトチームのマツダSC東洋でプレー。武田やカズが学生の頃からファン攻めに会い、スター街道を驀進するのとは対象的に、地味な選手生活をつづけていた。それが証拠に、代表に招集され、同じピッチでプレーする代表選手すら、森保一の存在を知らなかったという。森保一の名を呼べないチームメイトもいたというから、僕ら門外漢が存在を知らないのも道理なのである。

 そんな地味な森保一の存在が、僕の中で輝きを増したのは、彼のボールに絡まないプレースタイルの凄みを熱く語る、もとサッカープレーヤーだった友人の言葉がきっかけである。
 守備の要である森保は、迫り来る敵の動きを先回りし、先行する形で反応する。一瞬だけ早くパスコースに走り込もうとアクションを起こすのだ。
 敵がアシストを試みようとするそのわずか前に動くことで、敵はパスを諦め、バックパスなり無駄なパスなりに逃げる。つまり、森保が派手なスライディングでボールを奪う機会は少ない。だが確実に、チャンスの芽を摘んでいるのである。
 まさに職人。プロ中のプロ。
 それを知ってから僕は、サンフレッチェ広島のゲームを頻繁に見るようになった。日本代表のゲームにも足を運んだ。そして森保のプレーを見続けた。前線でゴールを決めるスタープレーヤーではなく、地味に働く森保に釘付けになったのだ。

 そんな彼がいま、監督になって成功している。彼の仕事ぶりを見ればそれも納得する。ゴールを目指して突進するよりも、バックスから戦況をうかがい、ゲームをコントロールし続けてきたことが、彼の武器である。
 ボランチという言葉が定着することになったのも森保の存在が大きい。ディフェンダーの前、中盤の底、攻撃と守備をこなさなければならず、ゲームメイクも課せられるのだ。サッカーの指揮者、ピッチ上の監督、それが森保だったのだから、いまの成功は当然だと思う。

「プロの仕事ぶりを見抜けるだけの…」

 さらに森保にとって幸運だったのは、その献身的な仕事ぶりを理解できる上層部がいたことだ。無名の森保一の才能を拾ったのはオフトであり、当時の川淵チェアマンであろう。
 もし上層部が素人集団であり、目が節穴だったのならば、派手なスライディングでボールを奪い、強引に駆け込んでシュートをするプレーヤー(つまり森保よりも戦況眼に劣り、パスコースが読めない二流プレーヤー)が代表に招集されていたに違いない。
 もし上層部が素人集団であり、目が節穴だったのならば、わざとタイミングを遅らせてボールに絡む(つまり、素人ウケのために質を落としたブレー)をすることで安易に評価をあげようとするプレーヤーが増殖することになる。森保が花咲いたのは、本人の資質に加え、プロの仕事ぶりを見抜けるだけの上層部がいたからなのである。

 かつて、元阪神タイガースのエースとして活躍し、のちに野球解説者となった江本孟紀は現役時代、「ベンチがアホやから野球がでけへん」と発言。フロント批判が有名になった。プロのスポーツ選手が一流の仕事をする。だが、その仕事ぶりは高い洞察力がなければ理解できないレベルに達している場合がある。森保一は幸いに、頭のいいベンチに恵まれたのだ。
 サッカーや野球だけに留まらず、プロスポーツはたいがい、もと一流のプレーヤーが監督なりコーチになる。ロッテの広岡達朗、中日の落合博満、ダイエーの王貞治はGMとしてチームの戦略に責任を持つ。オフトも川淵チェアマンも、元々はピッチで活躍した一流プレーヤーだったことも幸いした。目利きの高い上層部がいたからこそ、彼はプロの技を極めることができたのであり、そして正統に評価されたのである。

 レースの世界でも同様の事例はある。一流のプロドライバーの中には、フロントのレース眼のレベルを見くびり、お好みのドライビングスタイルで評価をあげることなど容易いとうそぶく人もいるのだ。 
 それをやっているかいないのかは、同じステアリングを握る僕らにはわかる。そうせざるを得ない気持ちも、わかる。
 森保一だったらどうしたのだろう…。

森保 一(もりやす はじめ)氏

キノシタの近況

キノシタの近況

 このコラムがアップされる頃には僕は、ニュルブルクリンクで喧騒に包まれているのだろうと思う。今年もLEXUS RCで戦う。エントリーリストでは、松井孝允、蒲生尚弥と組む。乗りやすいマシン作りを心掛けてきたつもりだ。早く本番を迎えたい。武者震いで体が疼く。

木下 隆之/レーシングドライバー

木下隆之

 1983年レース活動開始。全日本ツーリングカー選手権(スカイラインGT-Rほか)、全日本F3選手権、スーパーGT(GT500スープラほか)で優勝多数。スーパー耐久では最多勝記録更新中。海外レースにも参戦経験が豊富で、スパフランコルシャン、シャモニー、1992年から参戦を開始したニュルブルクリンク24時間レースでは、日本人として最多出場、最高位(総合5位)を記録。 一方で、数々の雑誌に寄稿。連載コラムなど多数。ヒューマニズム溢れる独特の文体が好評だ。代表作に、短編小説「ジェイズな奴ら」、ビジネス書「豊田章男の人間力」。テレビや講演会出演も積極的に活動中。日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員。日本ボート・オブ・ザ・イヤー選考委員。「第一回ジュノンボーイグランプリ(ウソ)」
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