レーシングドライバー木下隆之のクルマ連載コラム

177LAP

177LAP

G線上のアリアを弾くように…

2016.8.9

「冗談じゃねぇ、信じられるのは己だけだぜ!」

 「他人の言葉なんか信じて走れるか!(怒)」
 僕のレーシングドライバー仲間はたいがいそう言う。
「ラリーでは、コ・ドライバーが読み上げるペースノートを聞きながらコーナーを攻めるのです。したがって、コミュニケーションが大切なのです」
 ラリー指南書にはたいがいこう書かれている。TOYOTA GAZOO RacingのWebサイトでも、口うるさくペースノートの重要性が語られている。

 だが、いくらそう言われても、にわかには信じられない。ちょっと間違ったら谷底転落覚悟の林道を、他人の言葉をたよりになんか走る気がしないのである。
「次、右かも…」
「かもじゃね~よ!」
「この先、ジャンプ」
「飛んだら道がなかった、じゃね~だろうな!」
 ケンカ勃発は明白なのだ。
 おおむね、ラリー未経験の多くのドライバーがそう感じていることだろう。かくいうこの僕も、運転で信じられるのは自分の感覚とセンスだけだと信じて疑わないできた。スピンしたってクラッシュしたってすべて自己責任だ。「鈴鹿サーキットの130Rは雨でも全開だぜ」なんて出来もしないウソで陥れようとする輩もいる汚れた世界で生きてきたものだから、他人の助言にはことごとく耳に蓋をしてきた。いまさら身の安全を、他人任せになんてできないのである。

 今回、スーパー耐久で乗せてもらっているキャロッセのご好意でTOYOTA GAZOO Racing ラリーチャレンジに参戦することになったものの、戦う前までは「有視界走行」、つまり見たままに走ればなんとかなるだろうと高を括りつつ、TOYOTA GAZOO Racing ラリーチャレンジが開催される群馬県・渋川に向かったのである。

我が「藤原豆腐店(自家用)86」通称パンダ号

我が「藤原豆腐店(自家用)86」通称パンダ号

SSスタート直前なんだけど、嬉しいよね。

SSスタート直前なんだけど、嬉しいよね。

「280km/hジャンプしないんだろう?チョロイものだぜ」

 そんなこんなで不遜な態度で挑んだのには理由がある。
 だってこれまで僕は、ジムカーナやダートトライアルでもそれなりの大会でチャンピオンを獲得してきたし、日産時代にはWRC世界ラリー選手権参戦に向けたパルサーGTI-Rの開発ドライバーを長年続けてきた。ターマック走行もダート走行も得意だと自負してきた。タイムトライアルもお手の物だと思ってきた。小さな武勇にすがりながら、根拠の薄い天狗になっていたのである。
 TOYOTA GAZOO Racingが、WRC参戦に向けての若手育成プログラム(チャレンジプログラム)に僕を加えなかった目利きの悪さを、実は秘かにあざ笑ってもいた。渋川じゃなくてフィンランドに連れてけって、話である。
 なんといっても、ブラインドコーナーだらけのニュルブルクリンクでさえ、日本人最高位を保持しているのだ。見えないコーナーで280km/hジャンプだって経験しているのだから、耕うん機がトロトロ走る林道なんて眠っていたって走れるわい!と甘く見ていたのも若気の至り、いや、年寄りのひがみだと思って許して欲しい。

セレモニースタートからいざ林道へ…。

セレモニースタートからいざ林道へ…。

キャロッセのマシンには、「高崎クスコちゃん」が祝詞(のりと)を捧げてくれる。

キャロッセのマシンには、「高崎クスコちゃん」が祝詞(のりと)を捧げてくれる。

SS1は渋川市総合公園の中で始まる。この段階ではのんきな気分。

SS1は渋川市総合公園の中で始まる。この段階ではのんきな気分。

「ここを走るのかい?」

 だがしかし、現地についてビビった。左右につづら折れが続くコースは、道幅はあまりに狭く、とてもクルマを横に向けて走れるスペースなどない。対向車がきたら詰まる。一方通行でないことが、そもそもおかしい。いや、そもそも往来がゼロに等しいから一方通行じゃないのだ。つまり、ちょっとミスったらガードレールへの接触は覚悟しなければならないし、運が悪ければ雑木林にズドンの獣道なのだ。

手前のダートで失速気味。でも、リアを沈ませながら攻めてるんですけど…。

手前のダートで失速気味。でも、リアを沈ませながら攻めてるんですけど…。

 今回、SS(ひたすら速く走った人が偉い区間)に設定されたのは「西の沢線」だとか「二本木林道」だとか、いかにも山深い林道の名がつけられている。よほど精巧なカーナビをドアップにしても、髪の毛ほどのか細い線でしか表示されないような道が戦いの場だったのである。
 普段の往来は、おそらく1日に1台か2台だろう。森林伐採の業者か、山菜摘みのご夫婦が迷い込むような道である。北海道のお土産ステッカーじゃあるまいし、「熊出没注意」の看板もたっている。
 舗装がされてはいたけれど、土砂や枯れ葉が堆く積もっていた。おい茂る木立に日が遮られた林道は、夏場だというのにヒヤッとするほど気温が低く、路面には苔が生えていたりする。

こうして見ると、清々しいコースなんだけどね。落ち葉が気になるね。

こうして見ると、清々しいコースなんだけどね。落ち葉が気になるね。

 伸び放題の草木が道を覆い隠す。ボディのサイドを雑草がガサガサと擦ることも少なくない。コーナーはタイトで、ほとんどがブラインドだ。ちょっと大きなセダンなどで踏み入れたとしたら、立ち往生してしまいそうである。かといって、Uターンするスペースなどまずない。
 ここを限界で走るのか?狂ってないか?

林道のSS。舗装されているけれど、落ち葉が多いから走行ラインは1本?

林道のSS。舗装されているけれど、落ち葉が多いから走行ラインは1本?

クマが出るってことは、シカも出るわね。

クマが出るってことは、シカも出るわね。

「なんだこのタイム差は!」

 だが、スケジュールは嫌でもやってくる。もう後にも引き下がれず挑んだ人生初の林道SS。
 意を決しスタートした。
 そして無事ゴールした。
 その区間たった3.8km。
 タイムは4分00秒。

14時23分00秒でSSスタート。

14時23分00秒でSSスタート。

 自分ではまずまずのタイムだと満足した。ペースノートなど耳に走らず、耳に入ったとしても信じるわけもなく、ただ見たままに時にはテールスライドさせながら攻めた。なかなかキノシタも捨てたものではないぞ、と。
 だが、トップのタイムを知らされて愕然とした。15秒以上も離されていたのである。

 15秒って!

 3.8kmで15秒って!

 富士スピードウェイが4.5km。富士スピードウェイを1周もしないのに、15秒って!
 次のSSまで、ガックリとうな垂れたまま動けなかった。

「言語は自由に…」

 だがしかし…。
 ここからは観念して、有視界走行を断念。騙されたと思ってコ・ドライバーが読み上げるペースノートをたよりに走ることにした。するしかなかった。
 実はすでに、レッキと呼ばれる試走をこなしている。実際に走るSSをユルユルと走行し、コースの特性をメモに残していく作業である。TOYOTA GAZOO RacingのWebで紹介されている足立さやか嬢の解説を熟読していたから、およその書き方は理解しているつもりだった。
「R3、ロング、オープン、クレスト、グレ 30」
 次々にやってくるコースの特徴を、記号を交えながらイメージしやすうようにペースノートに記入していくのである。
 でも、やめた。
 林道を攻めているときに、そんな耳慣れない言語で語られても反応できるわけがないことを悟ったからだ。

 僕のコ・ドライバーに快諾してくれた奇特な保井隆宏選手は、全日本ラリーを戦いながら海外遠征もこなすプロ。彼が言うには、自分が理解しやすい言葉でいいのですよ、とのこと。これからフィンランドを目指すわけだから、やはりここは世界共通言語でレッキするべきかと悩んだものの、人生初ラリーゆえ、稚拙なレース言語で妥協することにした。
「インベタから~の、G残しつつ〜の、ちょいフェイント気味〜の、逆ぶりできめ~の、右コーナー、あとはズドンと踏みっぱ!」
 コースの特徴をメモるというより、走りの感覚を含ませながらのレッキである。
「いろは坂風からの~、いきなり右左から~の、チョンブレかまし〜の、インカットでズドンと踏みっぱ!」
 保井さんと心中するつもりで攻め込んだ2回目のSSはこんなかんじ。はっきり言って邪道このうえない。

「G線上のアリア」

 だけど、こうして走っていると不思議なことが僕の中で起った。いまから挑もうとするブラインドコーナーのわずか手前という絶妙なタイミングでペースノートを読み上げてくれることで、あたかもブラインドがブラインドではないように、透けて見えはじめてきたのである。
 キノシタというドライバーが、時空を超えて数秒先行しているような感覚である。
 VR仮想現実?
 AR拡張現実?
 先行するドローンからの映像がフロントガラスに写し出されているような、不思議な感覚である。
 コーナーの先を僕の網膜は映してないにもかかわらず、騙されたと思って“Gを残しつつ、フェイント気味に逆ぶり、右コーナー、踏みっぱ”してみたら、本当にそのコースが続く。
 フェイント気味に逆ぶり踏みっぱしたのにもかかわらずその先に右コーナーがなかったらガードレールにあたっている。でもそこには右コーナーがちゃんと現れる。
 見えないものが見えるのはホラーだが、これはホラーではない。現実そのものが、そこにさしかかる数秒手前に、視覚をつかさどる後頭葉の視覚野に写し出されているのだ。網膜をスキップして。
 僕にとって保井さんの読み上げるペースノートは、ピアニストでいうところのスコア(楽譜)である。リズミカルにコーナーを攻め込んでいるうちに、保井さんが告げる情報が心地良く耳に染み入ってきたのだ。「G線上のアリア」ならぬ「西の沢線上のキノシタ」である。
 有視界走行に見切りをつけた僕は、コ・ドライバーが誘うペースノートによって、一気に15秒のタイムを短縮したのだ。
 この異次元感覚は不思議だった。もう一度、味わいたいと思った。競技後すぐに、次の福島戦へのエントリーを決めた。

時計と距離計だけの我がパンダ号。一流コ・ドライバーだから、これで十分なんだってさ。

時計と距離計だけの我がパンダ号。一流コ・ドライバーだから、これで十分なんだってさ。

足跡コンピの保井隆宏さん、ありがとうございました。怖かったでしょ!

足跡コンピの保井隆宏さん、ありがとうございました。怖かったでしょ!

「でも、ナメるとケガをするぞ」

 ただし、興奮気味に攻めた僕に向かって保井さんは、現実的な一言で釘を刺した。ラリー中そのままの優しい語り口なのがかえって、納得できた。
「いきなりペースノートを信じて走れるのは凄いですね。ビックリしました。でも、そのペースノートの精度を高めないと、これ以上は危険です!」
 そう、その楽譜は僕がレッキで告げたものなのだ。それを僕は正しい楽譜だと信じて弾いた。だが、そもそもその楽譜は、ド素人の僕が五線譜に記したものなのだ。ト音記号もヘ音記号もわからない僕が、だ。これほど危険なことはない。
「ラリーの勝敗はレッキで決まりますからね」
 人の言ってることなんか聞きながら走れるか! そう思って有視界走行で挑んだ自分の甘さを恥じたのだった。
 楽譜がなければ、いくら一流のピアニストであってもはじめて弾く曲を正しく弾くことはできない。ただし、正しい楽譜があれば、ダイナミックな曲さえも初見で弾くことができる。僕にとっての人生初ラリーは、人生初の不思議感覚との出会いだった。

ラリー後の表彰式で、レース屋から一言って壇上に立たされました。

ラリー後の表彰式で、レース屋から一言って壇上に立たされました。

我がキャロッセチームの面々。和気あいあいです。

我がキャロッセチームの面々。和気あいあいです。

キノシタの近況

キノシタの近況

スーパー耐久もまもなく富士9時間耐久レースを迎えます。鈴鹿からのインターバルでマシンを仕上げてくれたことで、TOYOTA Team TOM'S SPIRIT 86の背中が少しは見えた気がする。そろそろ戦闘モード突入ですね。応援よろしく!

木下 隆之/レーシングドライバー

木下隆之

 1983年レース活動開始。全日本ツーリングカー選手権(スカイラインGT-Rほか)、全日本F3選手権、スーパーGT(GT500スープラほか)で優勝多数。スーパー耐久では最多勝記録更新中。海外レースにも参戦経験が豊富で、スパフランコルシャン、シャモニー、1992年から参戦を開始したニュルブルクリンク24時間レースでは、日本人として最多出場、最高位(総合5位)を記録。 一方で、数々の雑誌に寄稿。連載コラムなど多数。ヒューマニズム溢れる独特の文体が好評だ。代表作に、短編小説「ジェイズな奴ら」、ビジネス書「豊田章男の人間力」。テレビや講演会出演も積極的に活動中。日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員。日本ボート・オブ・ザ・イヤー選考委員。「第一回ジュノンボーイグランプリ(ウソ)」
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