「伝説の復活」
数々の伝説を生んだ「富士スピードウェイ30度バンク」が復活した。ご存知ですか!?
といっても、実際にレースで使われるのではなく、「30度バンクメモリアル」として保存されているのである。久しく朽ち果てていた30度バンクが整備されたのは2005年のことだったけれど、最近になってさらに手が加えられ、一般にも解放されるようになったのだ。
富士スピードウェイで30度バンクが使用されていたのは、1965年から1974年までの約10年間だ。富士スピードウェイ発足と同時に数々の名勝負を生んだ。その一方で、傾斜が強すぎたことで数々の悲劇を生んだのも事実。あまりに危険だというのが理由で、1974年に閉鎖されたのである。
それ以来、いまだに使用されていない。久しく整備もされず、アスファルトにはヒビが入り、割れ目から雑草が伸び、富士スピードウェイの広大な敷地の片隅で忘れ去られていた。だが2005年のリニューアルを機に保存されることになり、最近ではかつてを懐かしむシニアや、あるいは過去の名勝負を耳にした若い世代が訪れているという。
「恐怖の30度バンク」
どれほど危険であったかは、空撮写真を見れば容易に想像ができる。
世界有数の長さを誇るメインストレートを駆け抜けてきたマシンを、今でいう1コーナーで減速させずに、そのまま30度バンクに飛び込ませるようなレイアウトなのだ。
しかも、メインストレートの先が急激な下りになっている。マシンは速度を高め、30度に叩きつけられる。さらにいえば、最終コーナーは今のようなタイトコーナーではなく、超高速コーナーである。ストレートエンドでは今よりももっと勢いがついていたはずだ。ほぼ最高速度で30度バンクに続くのである。事故が起きるのも道理なのだ。
写真提供:日産自動車
写真提供:日産自動車
写真提供:日産自動車
「日本ナスカー株式会社」
ではなぜ、これほどまで過激な30度バンクが建設されたのかは、富士スピードウェイの歴史を遡れば理解することができる。
富士スピードウェイは、当時の名神高速道路の建設を担っていた建設大臣が、近い将来のクルマでの高速移動時代の到来に備え、高性能車の開発を提唱した。そのためには高速テストが可能なサーキットが不可欠だと唱えたのである。それがきっかけに富士スピードウェイの建設が企画された。
一方で、サーキット建設の手本としたのが、アメリカ最大のモータースポーツであるNASCARである。同時に、NASCAR誘致の契約を結んだ。富士スピードウェイでのNASCAR開催を前提にサーキット設計が始まったのだ。だから、オーバル形状のコーナーとバンクが必要だった。
だが、静岡県駿東郡の敷地での建設が進められていながら、来日したNASCAR関係者が否定的な態度をとった。アメリカンオーバルはフラットな敷地に施工されている。だが、この地は富士山の麓にある。起伏のあるこの地での建設は、サーキットとして危険すぎるというのがその理由だったのだ。
それから紆余曲折があり、大小のコーナーが左右に続くヨーロッパ型のスタイルのサーキットレイアウトにリデザインされるとともに、当初の志が残された形で、30度バンクが組み込まれたのである。
ちなみに、日本の本格的な四輪サーキット建設のために設立された会社は、日本ナスカー株式会社と命名された。富士スピードウェイ株式会社の前身である。アメリカが手本とされたことがうかがえる。
レーシングコースの名は鈴鹿や筑波と同様に「富士サーキット」とするのが自然なのに、富士は「富士スピードウェイ」と命名されたことにも、アメリカを参考にした名残がある。「デイトナ・インターナショナル・スピードウェイ」や「インディアナポリス・モーター・スピードウェイ」と同様にアメリカ名なのだ。
僕らの時代は、富士スピードウェイを「FISCO」と呼んで親しんできた。
写真提供:日産自動車
写真提供:日産自動車
「観客にとって一番人気になるはず」
僕は密かに、30度バンクのコースとしての復活を夢見ている。世界一の観客動員数を誇るNASCARの日本開催も期待したいところだが、そもそもバンク付きのコーナーは、観客目線の興業施設として魅力的だからである。
30度バンクのように道幅が広くバンクが長く続けば、サイドバイサイドの競い合いが長く維持されることになる。アウトで耐えるドライバーと、イン側で潜り込もうとするドライバーが十数センチの接近戦を、一瞬ではなく長々と演じることになるのだ。
それはNASCARが証明してくれている。現代のようなメインストレート+タイトコーナーを連接させるレイアウトの場合、1コーナーのインを奪ったほうが圧倒的に有利になる。先陣争いはたいがいそこで決着がつく。だが、バンクでは、インに飛び込んだからといってもその場では決着がつかない。並走したままのロングバトルを許してくれるのである。観客は、拳を握りしめたまま、バトルの行方を見守ることになるのだ。
「新たなヒーローの誕生」
東洋人初のNASCARドライバーとして、かつて数々のハイバンクで戦った福山英朗さんは、こういって30度バンクへの期待を語ってくれた。
「バンクがあれば、およそ想像ができないような高速でコーナーに挑めるようになるよね。物理的にね。だから観客がハッと目を覆いたくなるような飛び込みを観戦できると思うんだ。観客はもっと興奮すると思うよ」
確かに僕がNASCARを観戦しに、ローズ・スピードウェイやタラデガ・スピードウェイに足を運んだ時に、尋常ではない速度なのにアクセル全開でバンクに挑むドライバーの姿に腰を抜かしかけたことがある。
「そんなだから、ドライバーのクソ度胸が勝敗を左右するんだ。チキンな奴はアクセルを抜く、ハートの強いドライバーは全開。ドライビングテクニックだけではなく、精神的なタフさが求められるはずだ」
「久しく忘れ去られてきた根性勝負ですね」
「そうそう、マシンは決まってないけど、あいつ全開でいったよねって。だから新たなヒーローを生むかもしれないんだよね」
なるほど、モータースポーツの形態が変わるかもしれないのだ。それによって新たなヒーローが誕生し、ドライバーのステイタスも高まると思う。
もし、30度バンク付きの富士スピードウェイでスーパーGTを開催したら!?
タイヤに過剰なストレスが加わるから、サプライヤーは嫌がるだろう。マシンは床打ちして火花を散らすだろうから、斬新なセッティングが求められる。でもそこに技術開発が生まれる。
ドライバーのハートも試される。神経が太いか鈍感なドライバーに勝つチャンスがめばえる。そこに新たなヒーローが生まれるというわけだ。
福山英朗さんはこうも付け加えてくれた。
「もし30度バンクがあったら、木下くんはもっと勝ちまくっていたと思うよ。踏みっぷりが凄いからね(笑)」
それに対する答えはこれだ。
「僕の時代に30度バンクがなくて良かった。「チキン木下」だなんて、陰口叩かれていたかもしれないですからね(笑)」
キノシタの近況
こんな写真を披露すると誤解を生むかもしれないけれど、ニスモ時代の同窓会にお呼ばれしました。犬猿の仲の僕とラーマン山田がコンビを組んでいた時代のメンバーが中心だった。その中には、現♯23号車鈴木豊監督もいたから大喜び。「木下隆之/ラーマン山田組に、♯23を乗せてみない!?」最後までニヤニヤするばかりでした。なんでだろう!?
木下 隆之/レーシングドライバー
1983年レース活動開始。全日本ツーリングカー選手権(スカイラインGT-Rほか)、全日本F3選手権、スーパーGT(GT500スープラほか)で優勝多数。スーパー耐久では最多勝記録更新中。海外レースにも参戦経験が豊富で、スパフランコルシャン、シャモニー、1992年から参戦を開始したニュルブルクリンク24時間レースでは、日本人として最多出場、最高位(総合5位)を記録。一方で、数々の雑誌に寄稿。連載コラムなど多数。ヒューマニズム溢れる独特の文体が好評だ。代表作に、短編小説「ジェイズな奴ら」、ビジネス書「豊田章男の人間力」。テレビや講演会出演も積極的に活動中。日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員。日本ボート・オブ・ザ・イヤー選考委員。「第一回ジュノンボーイグランプリ(ウソ)」
木下隆之オフィシャルサイト >
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