レーシングドライバー木下隆之のクルマ連載コラム

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文化的遺産、多摩川スピードウェイの保存を願う

かつて、日本経済の黎明期を支えたサーキットがある。「多摩川スピードウェイ」がそれだ。自動車産業を育んだ聖地だと言っていい。その多摩川スピードウェイは今はなく、大観衆を飲み込んだグランドスタンドがひっそりと佇むだけだ。その文化的遺産ともいえるグランドスタンドの、取り壊し計画があるという。往時を忍ぶために何度も足を運んだ木下隆之が、胸の内を語る。

日本初の常設サーキット

多摩川スピードウェイという名を耳にしたことがある御仁は、相当のレース通か文化遺産に造詣が深い方であろう。
かくいう僕も、かねてから多摩川スピードウェイの存在は耳にしていた。東京と神奈川を隔てる多摩川の、神奈川県川崎市の河川敷にそれは存在していた。いまではセレブが多く住むお洒落な街にサーキットがあったということになる。

設立は1936年5月9日とある。日本の自動車黎明期である1900年初頭からすでに富裕層や外国人は自動車を所有しており、となれば競争が始まるのは道理。まだ常設サーキットがない時代であり、目黒競馬場や埋立地や、あるいは立川飛行場などで「自動車競争」が開催されていた。次第にレースが盛り上がりを見せ始めれば、常設の施設が欲しくなるのは世の常であろう。アメリカンモータースポーツの活動をしていた藤本軍次氏が発起人となり、報知新聞社とともに「日本スピードウェイ協会」を設立、多摩川沿いにあった東京横浜電鉄(現東急電鉄)の敷地に「多摩川スピードウェイ」はオープンしたのである。
総工費は10万円。第一回自動車競走大会には3万人が集結したそうだが、入場料は1人1円だったというから時代が忍ばれる。

一周は1,200mの左回りオーバル型だった。その後に船橋サーキットや鈴鹿サーキットが誕生することになるのだが、富士スピードウェイを含めてその頃の日本はアメリカンモータースポーツの影響を強く受けていた証であろう。
コース幅は20m。舗装はされていない。ダートオーバルなのである。
多摩川の河川敷を利用したために、土手は観客席とするのに都合が良かった。護岸工事のようにコンクリートで段々ができており、そこが観客席になった。いまでもその姿は残っている。幾分風化しているとはいえ、存在は明らかであり、当時の喧騒が聞こえてくるようである。
実は、僕は数年前にこの地を訪れている。オーバルサーキットがあった場所は遊歩道や公園になっており、ランニングで汗を流すアスリートが駆け抜け、三輪車に乗る子供達のキャッキャとはしゃぐ声がしていた。ここが日本初の常設サーキットの跡地であるなど、おそらく気がついている人は皆無であろう。手をつなぐ男女や、家族連れなどが腰掛けているそこが、多摩川スピードウェイのグランドスタンドだったのである。僕はしばらく往時を忍びながら、弁当を広げた。

日本の成長を支えた

多摩川スピードウェイでの初レースは「第一回自動車競走大会」という。開会式には大日本帝国陸軍将校たちが列席したと書物には記されていて、1万人とも3万人ともいう観客が訪れたという。フォードや三井高公男爵が輸入していたブガッティ、ベントレーが走っていたそうだ。庶民には高嶺の花であった高級車が顔を揃えていた。華やかな世界だったのだろう。
ここに、日本の経済的成長が窺える。実は日本メーカーも参戦していた。そのひとつが日産自動車であり、ワークス体制で挑んでいた。だが、記念すべき初レースの勝利は、三井物産傘下のオオタ自動車工業が手掛けた「オオタ号」に輝いた。惜敗を悔しがった日産自動車の鮎川義介社長が社員を鼓舞、第二回大会で雪辱を果たしたという。
本田技研工業を設立することになる本田宗一郎も、自ら製作したマシンで参戦していた。まさに、日本のモータリゼーションの芽生えを感じるのである。

その後、多摩川サーキットでのレースは第二次世界大戦で休止となるのは当然だが、終戦後に復活、1960年代まで開催された。だが、やがて廃止されたというのだ。今では「多摩川スピードウェイの会」で見守られている。
そんな、文化的遺産ともいえる多摩川スピードウェイの観客席が取り壊されるという。戦後日本は目覚ましい勢いで復興を果たした。その原動力になったのは自動車産業であろうことは明白だ。いまでも日本は自動車産業で支えられており、世界に多くの魅力的な自動車を輸出している。モータースポーツと自動車産業は一心同体である。つまり、多摩川スピードウェイでのレースが一役買っていることは明らかだ。ということは、多摩川スピードウェイは日本復興を担った文化的遺産である。

2016年の「多摩川スピードウェイ80周年記念式典」では、かつてこのサーキットを疾走したカーチス号とブガッティT35Cが展示された。式典では、多摩川スピードウェイの会から川崎市に記念プレートが贈呈され、いまでも観客席に埋められている。遺産として大切に守ってきた多摩川スピードウェイの会の気持ちを思えば、胸が締め付けられる。こうしていまモータースポーツで禄を食む僕も、気持ちが荒むのである。

30度バンクのように永遠に…

富士スピードウェイの「30度バンク」は、往時のままの姿で保存されている。レースコースとして使用はされこそいないが、富士スピードウェイの1コーナーの先にはその姿が確認できるし、記念碑も立つ。富士スピードウェイの手で管理され、その文化的遺産が受け継がれているのである。
30度バンクも多摩川スピードウェイ同様に、戦後の日本のモータースポーツ黎明期を支えたコーナーであり、歴史的名場面を生んだ。つまり、多摩川スピードウェイがそうであるように日本の自動車産業の育成に尽力したコーナーであり、いまでも大切に保存されている。
かつて多摩川スピードウェイで戦ったカーチス号は、東京本郷のアート商会が製作したマシンだ。修行時代の本田宗一郎が製作に関わったという。そのマシンは現在ホンダコレクションホールで保存されている。
フランスから輸入されたブガッティT35Cは、三井財閥総師の三井高公氏が所有していたものだ。かつて多摩川スピードウェイを戦った姿で、やはりホンダコレクションホールに収まっている。
というように、多摩川スピードウェイを彩ったマシンの数々は文化的遺産として保存されているのに、多摩川スピードウェイの跡地であるメインスタンドが取り壊されるのはどこか釈然としない。
解体工事が市民を守る護岸工事の一つならば、それに対してNOを突きつける気にはなれないが、たとえばモニュメントとして、あるいは往時が忍ばれるような形での保存を期待したい。
多摩川スピードウェイの会が、保存のための活動を開始している。僕は応援しようと思う。

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