レーシングドライバー木下隆之のクルマ連載コラム

308LAP2022.1.26

シェイクダウンは神聖に…

ニューモデルのシェイクダウン。工場から運び出されたばかりのマシン。初走行は神聖なものである。レーシングカーはひとつひとつ手作業で組み立てられる。この世に生を受けたマシンを初めて走らせる時には、独特の感情が芽生える。これまで何台ものシェイクダウンをこなしてきた木下隆之が語る。

2022年F1もそろそろ始まろうとしている

2022年のF1の日程が、徐々にあきらかになりつつある。3月の初戦はバーレーン。5月の第5戦は初開催のマイアミGPだ。コロナ禍で開催を断念した日本GPは第19戦で、10月9日の予定。最終戦のアブダビGPを含めて、全23戦が予定されている。
プレシーズンのテストスケジュールも発表になった。例年は3日間に限定されていたテストは、マシン規定が大幅に変更になることから6日間に増やされた。空力コンセプトが一新、グランドエフェクトの多用が許された。タイヤは13インチから18インチに拡大。2021年モデル以上の性能を確保することが困難なため、テスト日が増やされたのである。多くのチームが、その日にシェイクダウンを予定していると思われる。

ただ、事情が変わる可能性がある。というのも、F1は現在、テスト日以外の走行が制限されている。資金的に裕福なチームが有利にならないようにとの配慮である。だが例外的な走行方法がある。PR用撮影のための「フィルミングデー」の利用である。プレシーズンのテストデー以前に、この日を利用してシェイクダウンするのが慣習とされてきた。
これまで、走行は100km以内に限定され、タイヤもPR用のローグリップタイヤの使用が指定されていた。目的はあくまで撮影のためであり、それを利用してシェイクダウンすることのないようにとの縛りである。だが、今年はそのお達しから解放されるという。本番想定のレース仕様タイヤを履いて、100km走行することが許されるというのだ。ほとんどのチームが、積極的にシェイクダウンとして活用することだろう。

マシンの初走行は緊張の中で

シェイクダウンとは、慣らし運転のことである。レースの世界では初走行を意味する。果たしてエンジンは正常に回転するのだろうか? ギアは正しく変速するのだろうか? そもそもスムースに発進するのだろうか? 開発担当者の不安そうな表情のなか、初走行を迎えることが少なくない。
不肖キノシタも、日産契約時代には多くのマシンのシェイクダウンを担当した。まっさらの新車であり、誰もドライブしたことのないマシンの初走行の機会をいただいてきたのは幸運である。BMW Team Studieに移籍した今でも、アジア初上陸のM4 GT4とM2 CS Racingの初走行でステアリングを握った。

シェイクダウンの日は独特の雰囲気に包まれる。実際のレースシーズンで共に仕事をすることになるレギュラーエンジニアやメカニックはもちろんのこと、日頃はサーキットに顔を出さない運営側のスタッフも集結するからだろう。サーキットには不釣り合いなビジネススーツ姿が新鮮である。
シェイクダウンの光景をカメラに収めるための撮影クルーも慌ただしい。映像をドラマチックに演出するために、まず薄暗い早朝から、つまり、トレーラーからマシンが降ろされるシーンからカメラを回す。映り込みを嫌う撮影人のほとんどは黒装束だ。雰囲気を一層ものものしくさせるのである。
シェイクダウン担当のドライバーもまだシーズン用のレーシングスーツが完成しておらず、テスト用のスーツ、あるいはスポンサーロゴのない無地のスーツであることが多い。独特の緊張感にどこか初々しさが含まれるのは、それが理由かもしれない。
何にもまして、シェイクダウン当日は、チームとの初めての顔合わせである場合が少なくない。昨年からの継続ならば気心も知れていようが、チームを移籍した場合にはまだお互いを理解しているはずもなく、どこかよそよそしい。不自然な敬語でやりとりすることになるのだ。その日は、ステアリングを握ることのないチームメイトが傍にいることもある。

シェイクダウンには独特の流れがある。ただ走らせて確認するだけではないのだ。エンジンの暖機運転はいつもの数倍丁寧に行われる。走行の数時間前にエンジンに火が入れられる。夥しい数のメカニックが、小さな懐中電灯を片手にボンネットを覗き、あるいは寝板を滑らせてマシンのフロア下に潜る。
初走行では往々にして、小さなオイルの滲みやボルトの緩みがある。そんなトラブルの発見に目を凝らすのだ。
「シート合わせをしましょうか」
ドライバーは走行数時間前に一旦、マシンに腰を下ろす。バケットシートは体にフィットしているか。ペダル類との距離、シートベルトの調整、そして何よりもコクピットドリルを授かる。シート合わせは事前にガレージで終えていなければ、スタート前は慌ただしい。

「エンジンを始動してください」
いよいよ走行開始である。無線のボリューム調整もすでに終えてある。
ギアを恐る恐る1速にエンゲージする。ギアが噛み合う音に神経を注ぐ。クラッチの踏みごたえ、シフトレバーの操作感、何よりもエンジンの振動、異音、シェイクダウンで起こりがちなトラブルに神経を尖らせる。
「よろしければ走行を始めてください」
優しくクラッチをミート、低回転でピットロードを走行する。小刻みにハンドルを切り込んでみる。サスペンション系のー部に不具合を抱えることも少なくない。コースインしてからのハンドルトラブルは命の危険すらある。左足でブレーキペダルにそっと足を乗せる。効きを確認するためだ。ピットロードの短い時間に、マシントラブルの予兆を感じなければならない。
最初の一周は回転を抑え、あるいはスロットル開度を50%程度に抑えるのが一般的だ。マシンのコンディションを伝える数々のメーターを凝視。最近のコンピュータは優秀だから、ドライバーが異常を発見する前にトラブルの前兆を伝えてくれるのはありがたい。
「いま1コーナーです。油温は80℃ 水温95℃です」
「了解です」
「いま100Rです」
「了解です。ブレーキ等のタッチに異常はありませんか?」
「いま最終コーナーです。ギアも問題ありません。スムースに入ります」
コーナーを読み上げるのは、無線感度を確認するためだ。新たに組み込んだ無線では、サーキットの全コーナーで交信することができない場合があるからだ。
「そのままピットインしてください」
シェイクダウンは、1周回でピットインする。実際に走らせ、改めて不具合を確認するのである。ガレージでのメインテナンスでは不具合がなくても、実際に走らせれば負荷が加わる。滲むオイルがミッションを濡らす。規定トルクで締め上げたボルトが微振動で緩む。走らせなければ起こらない不具合があるからだ。
「ジャッキアップします」
これで一旦走行が中断することもあり、マシンによっては、1周の走行後にもう一度各部を点検する必要がある。
問題点がなければ連続走行にコマを進める。だが、いきなり全開走行することはない。50%、60%、70%…と時間をかけてマシンに負荷をかけていく。それはまるで、アスリートが競技に向けて体を整えていくかのよう。ブレーキ、エンジン、タイヤ…。全てに徐々に熱を加えていく。勝利に向かっての儀式のようである。

時代の流れの中で

ともあれ、最近のマシンは最初から完成度が高く、これほど丁寧にシェイクダウンをすることが少なくなった。僕がこの数年戦っているBMWは、たとえばM4 GT4もM2 CS Racingも、港での通関を終え、簡単な整備をしてすぐに全開走行が可能だったほどだ。
もっと極端に、通関後その足でサーキットイン、翌日からの公式練習に挑んだこともあった。そしてノートラブル、まだセッティングも好みに合わせていないのに、いきなり表彰台に立ったこともある。さように最近のマシンは出荷時点でほぼ完成している場合が多く、儀式のような神聖さは薄らいでいるが、それでも気持ちが張り詰めていることに違いはない。

何よりもシェイクダウンで気になるのはマシンの戦闘力である。パーツの各部が馴染んできたころ、それのペースで全開走行に移行するのだが、注目はまずタイム。戦うに十分なタイムが記録されるかという一点に、関係者は固唾を飲んで見守っている。
ドライバーとしては、操縦性の相性が気になる。これまで何台ものマシンをシェイクダウンしてきた経験からすると、ここでのファーストコンタクトでそのシーズンの勝敗が読めたりする。お見合いのように思うことがある。
そしてさらにシェイクダウンで意味深いのは、ファートドライブに携わることで愛情が芽生えるということだ。まっさらのマシンをドライブしたという行為に対しての責任。託されたドライバーとしての責任。そしてマシンにとって僕が初めてのドライバーになったという責任。すべてが愛情という言葉になって結びつく。それこそが大切なことのような気がする。シェイクダウンを任されたという責任と、チームへの感謝の気持ち。シェイクダウンという神聖な儀式に携われることの喜びは、格別である。

キノシタの近況

最近、典型的なリターンライダー生活を過ごしているのだが、ついにツーリングなどに参加してしまったのだ。基本的に群を嫌い、従うことにも抵抗し、単独で自由を謳歌することが好きなタイプなのに、みんなでのんびりツーリングすることがこれほど楽しいことだと初めて感じたのである。

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