レーシングドライバー木下隆之のクルマ連載コラム

365LAP2024.06.05

「昭和の名レーサー、都平健二逝く」

日産契約のレーシングドライバーとして、最前線で活躍した都平健二氏が逝去されました。享年80歳。日産のモータースポーツ黄金期を支えた氏と、チームメイトとして活躍した木下隆之が、都平健二氏の数々の武勇伝を語ります。

都平健二さんとの出会い

僕が都平健二さんとチームメイトになったのは、確か1988年だったと思います。僕がレースを始めてからほどなくして、日産自動車と契約することになり、すぐに全日本ツーリングカー選手権のドライバーに抜擢されるという幸運を手にしました。

マシンは、当時日産が主力マシンとして力を入れていたスカイラインGTS-Rです。ゼッケンは24番でしたから、23番をエースナンバーとした日産のセカンドマシンという立ち位置でした。おそらく日産は、まだ若かった僕の教育係として都平健二さんを#24スカイラインGTS-Rのエースに据え、僕を鍛えようとしたのだと思います。

都平さんとコンビを組むと聞かされた時は、高揚感に押しつぶされそうでした。何の実績もない木下隆之に対して、都平さんはあまりに偉大すぎたからです。
都平さんはモトクロスの名門「城北ライダース」のライダーとして活躍し、日産自動車からのオファーを受けて4輪ドライバーに転身した名門ドライバーです。
都平さんが四輪デビューしたのは、1965年のことです。当時はまだサーキットレースは黎明期であり、四輪のプロドライバーは数えるほどしかいなかったのです。日本は華やかな高度成長期まっただ中で、これからの4輪レースの隆盛を確信した日産は、モトクロスの世界で活躍するライダーを青田買いしたのです。のちに日本のモータースポーツ界を牽引する高橋国光、長谷見昌弘、星野一義、彼らも例外なく城北ライダースからの転身組なのです。都平さんもその一人というわけです。
城北ライダースから転身した日産のレーシングドライバーは活躍しました。サニーやチェリーなどで連戦連勝、通称ハコスカ、スカイラインGT-Rを操り伝説の50連勝に貢献しています。日産のモンスターマシンR381も操りました。そうです、僕がそんな希代の日産ワークスドライバーとコンビを組むことは幸運な事ですが、気後れしたのも当然のことでしょう。

武闘派集団

当時の日産契約ドライバーは、とても怖い存在だと聞いていました。日産契約ドライバーがパドックを闊歩するだけで、ライバルたちは道を開けたといいます。現代の柔和なサーキットの雰囲気からは想像できません。当時のマシンはけして安全とは言い難いものでした。そのマシンで接近戦をするのですから、命の危険がすぐそこに迫っているわけです。ライバルと仲良く語り合うなどあり得なかったといいます。
勝利に対する執念は驚くほどです。日産契約ドライバーだけの占有テスト中でさえ、チームメイト同士で接触することがあったというほどですから、想像を絶する獰猛さです。レースではありませんよ、マシンテストの時間です。ライバルでもありません。共に日産契約のチームメイトです。それでも競り合ってしまう。最近の穏やかなレース界では考えられませんよね。

いや、チームメイトだからライバルなのです。同じ道具を使う仲間こそ倒さねばならないライバルというわけです。
ですから、僕の教育係であってもライバルです。実際に都平さんから、懇切丁寧なドライビング指導を受けたことはありませんでした。弟子に対して手取り足取り技術を伝承することのない頑固な職人のように、「背中を見て学べ」、それが教えだったと思います。

コンプライアンスやハラスメントに厳しい現代では考えられませんが、鉄拳制裁も稀なことではありませんでした。特に都平さんは、曲がったことが嫌いなドライバーでした。マシンの不正も横行していましたが、露骨なインチキには強い口調で詰め寄っていましたね。その柔和な表情から想像もできないかもしれませんが、丸太のように太い二の腕で、コソコソと裏で危険なドライビングをするドライバーの胸ぐらを掴んでいるシーンも見掛けています。

コクピットから降りればとても優しい先輩、というより父親のように柔和な笑みを浮かべていましたが、ステアリングを握ると闘争心が溢れ出るのです。昭和の名レーサー、そんな言葉が適切です。

スカイラインGTS-Rで全日本ツーリングカー選手権を戦った翌年に、のちに再び連戦連勝街道を爆進することになるスカイラインGT-Rがデビューしました。日産はN1耐久に投入、都平健二/木下隆之組の体制を維持したまま、マシンを最新モデルにスイッチしたのです。マシンは晴れて日産のエース号車になりました。ということはつまり、親子ほど歳の差があるコンビでしたが、だからこそ正しく機能していたのでしょう。日産が認めてくれたというわけです。
僕は一方で、スウェーデン人ドライバーのA・オロフソンとコンビを組んで全日本ツーリングカー選手権もスカイラインGT-Rで戦うことになったのですが、都平健二/木下隆之組はスパ・フランコルシャン24時間遠征などで継続しています。

海外戦でも貫くドライビング魂

 

スパ・フランコルシャン24時間に遠征した時のことです。僕にとっては初めての海外レースでしたから多少の気後れがありました。サーキットでは雑誌やテレビで観た有名なマシンとドライバーが闊歩していたのですから、それも納得です。憧れのドライバー達を目にして気持ちがフワフワと浮ついていたのです。
欧州のチームは、東洋の島国からやってきた我々を見下しているような素振りでした。それも納得できます。スパ・フランコルシャンがあるベルギーはドイツやフランスに接しています。ドーバー海峡を渡ればイギリスです。モータースポーツ先進国のそんな国々から世界の競合がワークス体制で挑んできていたのです。
スカイラインGT-Rの速さは噂レベルでは聞いてはいたはずですが、信じていませんでしたね。
「そんな重量級マシンのブレーキが24時間持つはずがない」
「4輪駆動がサーキットで速いわけがない」
「日本人が速いわけがない」
言語が理解できないと思っている彼らは、あからさまな侮蔑を口にしていました。
ただ都平さんは、毅然とした態度でそれを跳ね返したのです。
「タイムを出せば、奴らは黙るから…」
それを証明するように、トップタイムを連発し、サーキットの雰囲気をガラリと変えて見せたのです。
スパ・フランコルシャンの名物コーナー「オー・ルージュ」は、恐怖のコーナーです。高速で飛び込み、フルスロットルで駆け抜けなければならない。事前の情報では、数多くのマシンが全損クラッシュの餌食になっていると言われていました。
そこを都平さんは、1周目からアクセル全開で挑みました。さすがにオーバースピードだったためにマシンはクルクルと何回転もスピン、幸いなことに無傷だったとはいうものの、ファーストアタックから全開で飛び込もうとするその度胸に腰を抜かしかけた記憶があります。とにかく全開にこだわる都平さんらしい。真骨頂ですね。

アクセルを踏み抜く

都平健二/木下隆之組のドライビングスタイルはシンプルです。誰よりもブレーキングを遅らせ、誰よりもアクセルペダルを深く踏み込む、これだけに執念を燃やしているようなドライビングでした。
都平さんは名言を残しています。
「ブレーキは踏まない」
「コーナーは真っ直ぐ走る」
僕がブレーキングテクニックを相談しても、多くは語りません。コーナリングワークを質問しても、そう答えるだけです。
きわめて野生的なドライビングスタイルだったのです。
僕がいまだに難攻不落のニュルブルクリンクにこだわっているのは、都平さんの愛弟子として薫陶を受けたからに違いありません。
ニュルブルクリンクは欧州の伝統的なレースですし、その特殊なコースレイアウトから恐怖心との戦いでもあります。ノーブレーキで飛び込めるドライバーが勝つ。アクセル全開率の高いドライバーが速く走れる。そんな世界です。
「ブレーキは踏まない」
「コーナーは真っ直ぐ走る」
この言葉を実践しているような気がしています。

享年80歳でこの世を去った「昭和の名レーサー・都平健二」のご冥福を祈ります。

キノシタの近況

2024年ニュルブルクリンク24時間が終了しました。雨→晴れ→雨→霧……。
定まらない天候に翻弄されました。7時間走行時に濃霧が発生、赤旗中断のまま24時間が過ぎました。その時点の5位が残されたリザルトです。不完全燃焼ですね。ともあれ応援ありがとうございました。