レーシングドライバー木下隆之のクルマ連載コラム

369LAP2024.08.07

「暑熱順化」

地球規模の温暖化で、真夏のスポーツのスタイルが変わりつつあります。開催時間を比較的涼しい早朝や夕方に移すなど、主催者も策を講じています。選手も同様に、暑さに耐えられる体を作らなければなりません。水を飲むな…帽子は被るな…旧態依然のスポーツスタイルをくぐり抜けてきた木下隆之が、対応策を語ってくれました。

今となっては懐かしい昭和のスポーツ

僕のような昭和生まれの人間にとって夏の思い出は、過酷な記憶の数々でもあります。
小学生の頃は野球や剣道に打ち込んでいました。まだまだ根性論が色濃く残る時代でしたから、科学的なトレーニング方法などなく、むしろ精神論が先行していましたね。
とくに、剣道という古くから伝わる伝統的なスポーツではその傾向が顕著です。真冬の道場は足先が痺れるほど冷たいのですが、稽古は裸足のままです。素肌の腕に竹刀が当たれば、気絶するほどの痛みが走りました。
夏場になれば、暑さとの戦いです。剣道着は分厚いものでしたし、夏用も冬用もありませんから、意識が朦朧としました。それでも剣士に弱音など許されませんから、ひたすら耐えるのみです。鉄拳制裁も少なくない時代でした。よくぞ耐えたものだと、いま思い返しても自分を褒めてあげたい気持ちです。

炎天下の野球にもよく耐えたものだと感心します。
「水は疲れを誘うから飲むな」
「足腰を鍛えるためにウサギ飛びをしろ」
「倒れるのは根性が足りないのだ」
科学的な根拠よりも根性論が先行している…そんな時代でした。
それでも、熱中症で倒れたという話は聞きません。当時は環境に対する意識が低く、光化学スモッグが社会問題化されていました。工場から排出される窒素化合物や揮発性有機化合物が太陽の紫外線と化学反応し、人体に健康被害をもたらすのです。

そんな中で水分を口にせず、炎天下で休むことも許されずにスポーツに没頭したのですから異常です。
「あの頃は今より涼しかった」
そう口にする人も少なくありません。
たしかに35℃以上の猛暑日や40℃以上の酷暑日などはほとんどなかったように記憶しています。ただ、気象庁の統計では、この100年で平均気温は0.73℃しか上昇していないというのですから、実際の感覚とは隔たりがありますよね。全国平均値での気温の上昇率はわずかでも、都市部の近代化や森林の減少などにより、生活圏の気温は数値以上に上昇しているのかもしれません。ともあれ、気温の上昇スピードほど人類の進化は早くはないのか、もしくは体が丈夫だったのかもしれません。あるいは根性が入っていたのでしょうか(笑)
ともあれ、真夏に水分も取らずスポーツするのは健康的ではありません。

熱中症に耐えながら

それでも夏のレースはあまりにも過酷でしたから、トレーニングを繰り返しました。クールスーツは存在していましたが、たびたびトラブルを起こしました。となれば、遠ざかる意識と闘いながらゴールを目指すしか方法はなく、ひたすら耐えるのみです。
意識が朦朧としてラップタイムが極端に落ちるドライバーもいましたし、不可解なクラッシュを繰り返した、それでも走行を続けたドライバーもいました。レース後に医務室に担ぎ込まれ、救急で処置を受けるのですが、そのときの記憶がポッカリと抜けているというのですから、今で言うならば熱中症ですよね。

熱中症とは、気温と湿度が高い環境下で体温のコントロールができない状態で、さまざまな症状が起こります。熱による失神はめまいや立ちくらみ、熱けいれんは手足などが攣る(つる)といった症状だそうです。熱疲労は脱水症状が原因で、疲労感や嘔吐、倦怠感などが現れます。熱射病は、体温の上昇と汗がかけない状態が続くことで意識障害を招くのです。程度の大小こそあれ、どなたも似たような経験をしていることと思います。症状を軽視しないほうがいいですね。

わずか1周で意識が朦朧と…

これまで長くレースをしてくると、この熱中症に似た症状に陥ったことが何度かあります、幸い僕は暑さに強いようで、多くのドライバーが倒れていくそばでなんとか耐えてきましたし、それによって順位を上げたことも少なくありません。

暑さの記憶はたくさんありますが、真夏のスーパーGTマレーシア戦は強烈でしたね。
僕は後半のドライブでしたからスタートの瞬間をピットで見守る予定だったのですが、フォーメーションラップ中にチームメイトからギブアップの無線が届いたのです。まだスタートもしていないのに、暑さに耐えられないと、助けを求めてきたのです。

たしかにスタート前のセレモニーは長く、それに耐えるのが辛かった記憶があります。選手紹介の後に国歌斉唱が続き、大会関係者へ挨拶などで1時間ほどスタートグリッドにいたのです。フォーメーションがスタートする頃には、たしかにもう熱中症寸前になっていました。
とはいうものの、まだスタートもしていないのにドライバー交代など前代未聞です。
さすがにチーム監督が鼓舞し、最低義務周回数だけ走らせて僕にドライバーチェンジしたのですが、後半を担当する僕はチェッカーフラッグが振り下ろされるまでの残り3分の2を走らなければならなかったのです。
スタートドライバーはピットインすればセカンドドライバーが待機していますが、セカンドドライバーはピットインするわけにもいかず、最後まで走らなければなりません。それはそれは、気を失いかけるほど過酷でしたね。後半担当の辛さを感じました。これはもう、恐怖に近いものでした。

ふたたびマレーシア戦での出来事です。真夏のGT12時間レースでした。12時間レースでしたから3名のドライバーがチームとなっており、それぞれが1時間15分ほどを担当、それを繰り返してゴールを目指すのです。
コンビを組んでいたのはオランダ人とドイツ人のドライバーでしたが、最初のスティントをそれぞれが終えた後、その一人のドイツ人ドライバーが「僕は30分しか運転したくない」と宣言してしまったのです。暑さに耐えられないと…。
その皺寄せは僕ら二人に被ってきます。もちろん憤慨しましたが、走らないわけにはいかない。最後は自己ベストの10秒ほど遅いタイムで周回するまでに意識が乱れていました。それでも、目の前では多くのドライバーがクラッシュしていく。いかに熱中症に耐えられるかのレースです。これがモータースポーツなのか、疑いたくなりましたね。

さすがに、暑さが理由でレースがディレイすることはこれまでありません。危険を感じたら自己責任によりレースを放棄するしか方法はありませんが、それは許されません。なので、ラップタイムが驚くほど悪化しても、走り切るしかないのです。

冷凍マグロのように…

それにしても、暑さで意識朦朧としたドライバーを、ピット裏に用意した氷漬けの簡易ブールに浸からせたのは、医学的に正解だったのか怪しいものです。
それはまるで、マグロの瞬間締めのようです。体温が上がった人間を、氷を浮かべたブールで冷やすのですから体に良いわけはありませんよね。
もっとも、いくつかの文献には、体温をまず冷やすことが重要であり、そのためには冷水で冷やすことも有効だと書かれています。サウナで体を温めた直後に水風呂に飛び込むことはポピュラーのようです。それにより「整う」のは快感だそうですね。
ですが、こっちは氷水です。心臓への負担はどうなのでしよう。諸説あるようです。正解が知りたいものです。

かつて猛暑のレースの耐えられるように、過酷なトレーニングをしていました。真夏にビニール製のレインウエアを纏い、その上にトレーナーを着てランニングです。頭にはニット帽を被りました。コクピットのように極限まで暑い環境を作り出し、それに耐える訓練をしていたのです。
1時間も走ると、意識が朦朧としてきます。倒れるギリギリまで耐えていました。フラフラになりながら帰宅し、溜めておいた水風呂に飛び込みました。
科学的には証明されておらず、気休めのような気がしていましたが、それでもいきなり灼熱のレースに挑むよりは精神的には救いだったような気がしていました。
ただ、最近は「暑熱順化」と呼ばれ、効果が有効だというのです。
つまり、肉体的にも精神的にも暑さに身構えることが必要だというのです。突然の暑さには耐えられない。ですが、体と精神に記憶させておくことで、忍耐力が高まるというのです。
とすると、僕が毎年繰り返していた夏のレース用のトレーニングは、あながち間違いではなかったことになりますね(笑)。
昭和の時代には、運動中に水を飲むことを禁止され、炎天下でも休むことは許されず、ひたすら根性論だけで戦ってきました。しかし、スポーツ医学が発達した今では、それも大間違いではなかったというのですからスポーツとはわからないものですね。

今年僕は、日本人として初めてNLSニュルブルクリンク耐久シリーズに参戦しています。つまり、8月のニュルブルクリンクは初めての経験なのです。
ニュルブルクリンクの気候は不安定です。短パンTシャツで汗をかいていたというのに、その翌日に雹(ひょう)が降ることもありました。
4月のレースだというのに突然の猛暑に襲われ、しかもチームにはクールスーツの用意がなく、暑さに厳しいレースになったこともあります。
初めての夏のニュルブルクリンクに備えて、ふたたびあの、雨ガッパにヨットパーカートレーニングを開始しようかと思っています。

キノシタの近況

NLS7戦は、ニュルブルクリングがもっとも暑いはずの8月開催でしたが、日本の酷暑から比較すれば過ごしやすい気候でしたね。身体的な酷暑対策はしてきたつもりですが、ちょっと拍子抜け。というほどに爽やかな気候に恵まれました。

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