377LAP2024.12.11
「名車が再生された日」
「ラリーの日産」かつて日産がそう呼ばれWRCに参戦していた時代に、栄華を誇った伝説のマシン「パルサーGTI-R」が蘇った。当時、テストドライバーとしてステアリングを握っていた木下隆之が語ります。
日産の伝統ふたたび
「僕は日産に育てられたドライバーです」
トヨタ自動車のサイトで連載コラムを綴っている身としては、いささか常識はずれの書き出しになってしまった非礼をお許しいただきたい。
ともあれ、そもそも連載スタート時には、当時の社長からこんな申し付けをされている。
「トヨタのサイトですが、トヨタの懐は深く、触れてはならない話題はありません。というよりもむしろ、他メーカーの話題なども遠慮なく書き連ねてください。そうでないと、情報が偏ってしまう」
そのように念を押されていたのだ。
そう、トヨタはなかなか懐が深い。その言葉に甘えて、今回は日産のモータースポーツの歴史において欠かすことのできない、希少なマシンを紹介することにする。
とはいうものの、その経験が木下隆之の腕を磨き、のちにGAZOO Racingのドライバーとして様々なマシンの開発業務を担当することになるのだから、あながち無縁ではない。
先日ドライブが許されたのは、「日産パルサーGTI-R」だ。しかも、トヨタの呼称で言うならば、号口ではなく、ラリー専用に開発されたグループA仕様のマシンである。
日本が未曾有のバブル経済に沸いていた1992年の生産だ。華やかな時代の後半ではあるのだが、日産はWRC(世界ラリー選手権)の制覇を目論み、その切り札としてパルサーGTI-Rを送り込んだ。そのマシンが32年の歳月を経て、完全な形で復元されたのである。
詳細に記すならば、1992年RACラリー参戦モデルとなる。現在でもWRCのメインステージは欧州であり、特に天候の変化が極まる北欧がメッカであろう。GRもそこに積極的に参戦し、世界チャンピオンに輝いているのは世間が承知だろうが、イギリスを舞台に開催されるRACラリーもコンディションの変化が著しく、過酷なステージが待ち受けていた。そのRACラリーで3位に輝いた個体そのものなのだから誇らしい。
名車再生クラブ
再生させたのは、日産の有志団体で構成される「日産名車再生クラブ」の精鋭たちだ。クラブ代表は、現在ニスモに所属し副社長を務める木賀氏。エンジン開発者だ。これまで数々の名機を生み出してきたエリートであり、モータースポーツの知見も深い。
クラブの発足は2006年4月。日産の技術的中枢であるテクニカルセンター内の、開発部門の従業員を中心に組織化された。
日産の財産である、歴史的モデルを動態保存することが目的だ。これまで再生してきたモデルは19台。その中にはモンテカルロラリー仕様「240RS」や世界を転戦した「ダットサン2000GT」、にスパ・フランコルシャンを戦った「スカイラインGTS-RグループA仕様」など、歴史を語るに相応しいモデルが含まれる。
日産には、歴史を保存する「ヘリテージコレクション」が存在している。数百台の魅力的なモデルが展示されている。そこに運び込まれるのだろう。
歴史を大切にするトヨタにももちろん、近代的な「トヨタ博物館」がある。ここには、トヨタ車だけではなく、これまで世界で販売された個性的なモデルが秘蔵されている。その中にはモータースポーツで活躍したモデルも静かに眠る。トヨタにとってライバルであった日産車も含まれている。このコラムが、ライバル車に関する話題が許されているように、トヨタは自らの社名を冠する博物館でさえ、メーカーの垣根を取り払っているのである。あらためて懐の深さを実感するのだ。
夜通し走らせた愛機
その希少なマシンをドライブすることが許された背景には、ただならぬ縁がある。
僕はかつて日産契約のドライバーだった。トヨタに移籍するさらに昔のことだ。まだ若かったこともあり、ラリー車の開発ドライバーを仰せつかった。そのマシンがWRC仕様のパルサーGTI-Rだったのだ。
「もし再生したのならば、キノシタさんにドライブして欲しい」
木賀さんからそう告げられたのか、もしくは、「パルサーGTI-Rをドライブするのならば僕が適任でしょ」と強引に迫ったのか記憶にないが、むしろ後者であろう。なかば強制的にドライブの機会を奪ったのである。
そのマシンを実戦でドライブしていたのは、歴史に名を残す名ラリーストの「S・ブロンクヴィスト」だ。僕は故・都平健二さんと二人で、WRCに送り込むまでの開発車両を細くテストしていた。
テストは過酷なもので、月曜日から金曜日まで毎日約12時間続いた。発売前のパルサーGTI-Rがベースだったから、テスト走行は夜8時から早朝8時まで、衆目から逃れるように深夜に行われたのである。
そのクールが月に2回。およそ2年間続いたと記憶している。つまり、WRCデビュー前の1990年と1991年。国内の某林道を閉鎖して、飽きるほど繰り返されるのだ。
搭載するエンジンはSR20DET型・直列4気筒2リッターターボ。伝家の宝刀、電子制御アテーサE-TSと組み合わされていた。
開発当初は、速く走るとことより、マシンを壊すことが主体だった。僕はのちにGAZOO Racingでニュルブルクリンクに挑むことになるのだが、そこで豊田章男会長は「マシンを壊してくれてありがとう」との名言を残している。開発テストの意義を語る言葉だ。つまり、開発の主眼はマシンを鍛えることであり、そのためにはスクラップ&ビルドの繰り返しが求められるのだ。
ともあれ、マシンが音を上げるまで追い込むには、ドライバーが過激に攻め込む必要がある。深夜の林道をそこまで追い込むには、ただならぬドライビングスキルと体力が求められる。ひたすらアクセル全開で攻め込む必要があるからだ。
僕は正直に、この経験が木下隆之のドライビングスキルを鍛え、齢64歳にしていまだにニュルブルクリンクを戦えるだけの体力を植え付けたのだと信じている。限界域でのコントロール能力や、枯渇しない体力は、パルサーGTI-Rの林道ドライビングで養われた。その意味ではパルサーGTI-Rは、僕の育ての親なのだ。冒頭で「僕は日産に育てられたドライバーです」としたのは、それが理由なのである。
絆
実際のドライブは、感慨深いものだった。名車再生クラブによって蘇ったグループA仕様のパルサーGTI-Rは、当時と変わらぬ完璧なコンディションに整えられていた。
カラーリングやステッカーの位置など、細部にわたって忠実に再現されていることはもちろんだが、メーターやスイッチ類まで復元されている。エンジンもミッションも、当時のままだ。さすがにタイヤは劣化が激しく、かつてのスペックをもとに最新のゴムで整形されていたが、すべては36年前の個体そのものなのである。
感動したのは、当時のマシンが生き生きとしていることだ。ターボチャージャーはターボらしく獰猛な抑揚がある。低回転では渋く、だがパワーバンドに突入するや否や弾けるようにパワーが炸裂する。エンジンは機械であり金属の歯車の塊である。だがそれはまるで生き物のように生命感を帯びていたのだ。
ミッションはレース用のドグタイプだ。なのにH型。シフト操作ではエンジンの回転を合わせなければスムーズに変速ができない。ただ、タイミングさえシンクロすればスコスコと決まる。最新のレーシングカーはパドルであり変速ミスはない。それはそれで速く走るための必然なのだが、旧車はドライバーに高度なドライビングスキルを求めたのである。まるで僕のドライビングスキルが試されているように感じた。
最新のマシンを否定する気は毛頭ないが、今ではF1でさえただ転がすだけなら誰でも可能だと聞く。速く走らせるのはまた別の論理ではあるものの、それほどドライビングはイージーなのだ。
ドライバーのストレスを緩和させることが勝利への道筋であることも道理である。だが、当時のマシンはドライバーとの戦いであり、未熟なドライバーには簡単にはなびかない。むしろ強い力で拒絶する。鼻で笑うかのように突き放す。
パルサーGTI-Rのような歴史上のモデルは、簡単にはドライバーになびかない。媚びることもない。マシンと気持ちが通じ合い、一体になってこそ戦いの道具になるのだと思った。
このマシンでよくも林道を限界域で走ったものだと、われながら感心する。今回のドライブは数周で終えたのだが、最後まで変速がスムーズに決まることはなく、限界を覗かせてはくれなかった。かつての僕の愛機ではあるものの、36年の疎遠によって臍を曲げているようにも感じた。血統のサラブレッドが騎手を選ぶように、拒絶したのである。マシンが機械ではなく、生き物だった時代であろう。
日産ヘリテージコレクションだけではなく、トヨタ博物館も見学してみるつもりだ。そこで歴史を紡いできた名車たちの生命力を感じてみたい。
キノシタの近況
まだニュルブルクリンクを戦った余韻が残る。と言うよりも、スープラロスに陥っているのだ。もうすでに2025年の開幕戦が待ち遠しい。