激闘のル・マン100周年大会。
苦戦の影にあったTOYOTA GAZOO Racingドライバーたちの奮闘
~2023 ル・マン24時間レース/レビュー~
「ル・マンな日々 2023」の後編は、モータースポーツジャーナリストの古賀敬介さんがル・マン現地で取材したTOYOTA GAZOO Racingの挑戦の模様を、日本人選手2人の姿を中心にレポートします。
ル・マン開催直前に突然のBoP変更が...
今年のル・マン24時間、100周年記念レースが終り、TOYOTA GAZOO Racing(TGR)は8号車が総合2位、7号車はリタイアという結果でした。優勝はフェラーリAFコルセ。TGRは目標としていた100周年記念の勝利を逃したわけですが、なぜ勝つことができなかったのか、そしてル・マンの現場はどのような雰囲気だったのかについて、改めてふりかえってみたいと思います。
前回、100周年記念大会のプレビューを執筆した後に、思いもよらぬ「ルール変更」がありました。ハイパーカークラスに出場する各車のBoP(バランス・オブ・パフォーマンス=性能均衡化)が突然変更されたのです。WEC(世界耐久選手権)では、様々な仕様のクルマに門戸を広げ、その上で各車の性能ができるだけ接近し競争が盛り上がるようにと、BoPによりパフォーマンスに差が出ないような性能バランスの調整が行なわれます。そもそもBoPを前提としたレース、シリーズであり、全チームがそのシステムを了承した上で参戦しています。
どんなにがんばって速いクルマを開発しても、BoPによりパフォーマンスが制限されてしまっては意味がないのでは? と思うかもしれませんが、それは半分正解です。しかし、仮にデータ上では完全に同じ性能であったとしても、クルマの乗りやすさ=ミスのしにくさ、信頼性の高さ、そしてタイヤの持ちといった部分では差が生じ、そういったデータに現れにくい要素こそがライバルに対するアドバンテージになるのです。そしてTGRの開発チームとドライバーたちは、上記のような要素を大きくレベルアップさせるべく、2023年仕様のGR010 HYBRIDを開発してきました。
BoPはシリーズおよびレースの主催者が、各車から収集したデータに基づいて決定し、任意のタイミングで発表されます。そしてWECの2023年シーズン前半に関しては、今年3月の時点で開幕戦セブリングでのBoPと、第2〜第4戦分のBoPが既に文章で発表されていました。つまり、その時点で第4戦ル・マン24時間のBoPは決定していた"はず"なのです。BoPには最低重量、1スティント中のエネルギー使用量、パワーユニットの最大出力といった要素が含まれ、各チームとも設定されたBoP内で最大のパフォーマンスを発揮できるようにと、時間をかけてクルマのセッティングや戦略をシミュレーションするのです。
ところが、ル・マン24時間前週の水曜日に、決まっていたハイパーカーのBoPが突然変更されました。各チームの関係者によると、事前に何も予告はなかったということで、かなり驚いたようです。しかも、その変更はかなり大きなもので、主に重量コントロールによる性能調整がなされました。過去にもイレギュラーといえるようなBoPが実行されたことはりますが、WECを取材してきた僕個人としては、かなり大胆な重量コントロールだと思いました。というのもGR010 HYBRIDは当初の1043kgというハイパーカーで2番目に重い最低重量から一気に37kgも重くなり、1080kgとなったからです。ちなみに、2番目に重いのは24kg増で1064kgのフェラーリ499P、3番目は3kg増で1048kgのポルシェ963。GR010 HYBRIDは断トツで最重量車となったのです。37kgといえば10〜11才の男の子の平均体重に近い重量で、TGRのエンジニアたちがパワートレーンを今年10kg程度軽量化するために心血を注いできたことを考えれば、相当な重量増です。
大きなハンデを背負うも、逆にチームの結束は強くなる
クルマが重くなれば当然ラップタイムも遅くなりますが、それだけでなく、タイヤへの負荷も高まります。加速、減速、コーナリングの全てにおいて大きなストレスがかかり、摩耗についても厳しくなります。さらに、今シーズンはタイヤを装着する前に暖める「タイヤウォーマー」を使用しないことが規則で決められ、そのためウォームアップ=暖まりを重視したタイヤが供給されていました。ところが、ル・マンの前までの2戦で各車ともタイヤが予想以上に暖まらず、それが原因でのアクシデントが少なくなかったため、ル・マンではタイヤウォーマーが使えるようになりました。しかしタイヤそのものは変わらず、GR010 HYBRIDにとってはウォームアップ性能を高めた分だけ低下した要素が、37kgの重量増によって、より大きなハンデとなったのです。
TGR WECチームの代表であり、7号車のドライバーでもある小林可夢偉選手は、重量を増した状態で臨んだル・マンのテストデーを走り終え「重量増により、タイヤのグリップがあるところから突然失われるような挙動に変わりました。ラップタイムもかなり落ちましたし、シミュレーションの結果以上にダメージは大きいと感じました」と、BoP変更による影響の大きさを語っていました。
結果的にBoPの直前変更により、各車のパワーバランスには変化が生じました。アドバンテージを得たクルマもあれば、パフォーマンスを削がれたクルマもあり、GR010 HYBRIDはまさに後者の代表格になりました。重量増をふまえた状態で行なったシミュレーションの結果は、純粋な速さによる優勝は難しいという、かなり厳しい内容だったようです。優勝の最有力候補から、ライバルを追う立場へと、TGRの立ち位置は大きく変わったのです。そして、レースウィークが始まり練習走行、予選、ハイパーポールと進む中で、GR010 HYBRIDはもはや最速のクルマではないということが明確になりました。特にハイパーポールでは、7号車をドライブした小林選手のベストラップがトラックリミット違反により抹消されたこともありましたが、3番手タイムだった8号車と、ハイパーポール獲得のフェラーリ50号車の間には約1.5秒という相当大きな開きがありました。
フェラーリは開幕戦セブリングでもいきなりポールポジションを獲得するなど、以前から予選一発の速さではGR010 HYBRIDを上まわることもありました。しかし、ル・マンでの1.5秒差はかなりセンセーショナルで、そこにはやはり重量差があったと思われます。それでもTGRのエンジニアは「決勝に近い状態で走ったフリー走行でのラップタイム差は0.5秒以内だと思うので、自分たちがこれまでやってきたようなレースをすることができれば、勝つチャンスは必ずあると信じています」と、高いモチベーションを保っていました。また、小林チーム代表は「不利な状況になってしまったことにより、チームの結束力はむしろ高まり、チームとしては非常にいい状態にあります」と、とてもポジティブでした。
ドライバーたちが全力を振り絞った24時間の戦い
迎えた6月10日土曜日の決勝。レースの内容については既にTGRのレポート等で詳しく報じられているので省き、僕がコースサイドで見て、感じたことについて記したいと思います。午後4時の決勝スタート前、これまでに見たことがないほど多くの人で埋まったグリッドでしばらく撮影した後、1コーナーを通り過ぎダンロップブリッジの手前に陣取りました。例年、スタート直後に接触やコースオフが起こるスリリングなポイントで、大きなスクリーンにはライブ映像が映し出されるためレースの展開を把握することもできます。そして午後4時、レースがスタート。赤い2台のフェラーリのすぐ背後にいいスタートを決めたセバスチャン・ブエミの8号車がぴたりとつけ、目の前を駆け抜けていきました。そして、しばらくするとインディアナポリスの手前で8号車がフェラーリをかわしトップに立つ映像がスクリーンに映し出されました。その瞬間、僕の近くの観客席から「ウォーッ」という大音量の歓声と拍手が響き渡りました。きっと皆さん、TGRがどのような状況でレースに臨んでいるのか知っていたのでしょう。もちろん、ブエミ選手個人への応援もあったと思いますが、TGRの2台への応援は想像以上でした。その後、フェラーリが抜き返した時にも歓声は上がりましたが、音量は比較的マイルドでした。
TGRのエンジニアが予想していたように、決勝での499PとGR010 HYBRIDの平均的なタイム差は少なく、それぞれのクルマに速いセクションと、スティントがあり、非常に拮抗した戦いが続きました。499Pはフェラーリ・チームが懸念していた信頼性も非常に高く、ラップも安定していました。一方、GR010 HYBRIDはラップタイムが予想以上に良く、フェラーリの後方を走っている状況でも相手にワンミスがあれば追い抜けるほどのパフォーマンスがありました。ただし、コクピットの中ではドライバーたちがかなり力を振り絞っており、それは8号車のブエミが例年にないほど多くのトラックリミット違反、つまりコースを大幅にはみ出す走行をしていたことからも明白でした。彼らはGR010 HYBRIDの性能をフルに引き出し、重量増により負担が増えたタイヤをケアしながらも懸命にアタックを続け、16kg軽いフェラーリと首位争いを展開していたのです。
2台のGR010 HYBRIDが最後まで走り続けることができていたとしたら、表彰台の立ち位置はもしかしたら変わっていたかもしれません。深夜、小林選手がドライブしていた7号車はスローゾーンで前を走るクルマが急減速し、それを抜かさないために速度を落としたところ後続のクルマに追突されてしまいました。もし前のクルマを抜いてしまったらペナルティタイムを課せられるため間違った判断ではありませんでしたが、結果的に追突により7号車はリヤセクションに大きなダメージを負い、リタイアを余儀なくされました。7号車はレースの最終盤までいい位置をキープし、爆発的なスピードがある小林選手がステアリングを握る最後のスティントで一気に勝負をかける戦略を考えていたようです。それだけに非常に残念な結末となってしまい、さらには1台のみとなってしまった8号車も、フェラーリの2台を相手に孤軍で厳しい戦いを強いられ、ドライバーたちは非常に辛い状況だったようです。
51号車へのラストアタック。誰もが平川選手の健闘を称える
しかしながらレース終盤、8号車のブレンドン・ハートレー選手は持てる力を全て出し切り快走。前を走る首位のフェラーリ51号車との差をどんどんと削っていきました。クルマのパフォーマンス差を超越したその走りは見ているだけでも心臓が痛くなるほど壮絶で、改めてハートレー選手の凄さを実感しました。そして、フェラーリ51号車との差を10秒少々まで縮めて自分の4スティントを完遂したハートレー選手は、たすきを最終ランナーである平川亮選手へ。その時、チームは「完全に優勝だけを狙って行くようなムードでした。平川には相当大きなプレッシャーがかかっていたと思います」と、小林チーム代表。経験豊富なブエミ選手が最終ランナーを務めるというオプションもあったようですが彼もまた既に限界を超えており、ミスなく最後までアタックし続ける余力は残っていなかったようです。そこで、当初の予定通り平川選手が最終走者となり、彼は奪首という重い任務を背負ってピットを後にしたのです。コースサイドで見ていてもアウトラップから平川選手の走りには気合いが感じられましたが、その直後に難所アルナージュでクラッシュ。何とかレースに復帰することはできましたが、かなり大きくタイムを失い、その後ピットで前後のカウルを交換したことでさらに遅れ、首位との差は1周近くまでひらいてしまいました。その差を挽回することは、ライバルに何かが起こらない限り不可能であり、ここでトヨタの敗北は決定的になりました。平川選手は最後まで全力を尽くして戦いましたが、81秒届かず総合2位でフィニッシュ。8号車は総合2位でレースを終えました。
結果的には平川選手のクラッシュで勝機を失ったことになりますが、条件的に勝つことが難しいレースでよくぞ2位を獲得したというのが、僕の正直な感想です。平川選手がステアリングを引き継いだ時、ハードアタックが続いていた8号車はブレーキング時の挙動がかなりトリッキーになっていたようで、ハートレー選手もそれを感じながらドライブしていたようです。その状況で、クルマの挙動をまだ把握しきれていなかった平川選手がミスをしたことを、チームメイトも、チームも攻めはしなかったようです。表彰式で、記者会見で、悔しさを隠しきれず落ち込む平川選手を勇気づけるように、ハートレー選手が肩に手をやり、何度も慰めの言葉をかけていたのが印象的でした。厳しい状況ながら死力を尽くして最後まで戦い続けた8号車のクルーには、観客席から大きな拍手が贈られました。
興奮もした100周年大会。同時に改めて深く考えさせられた1戦に
50年ぶりにル・マンのトップカテゴリーに復帰し、その初年度で優勝を獲得したフェラーリは素晴らしい戦いをしたと思います。BoPによりGR010 HYBRIDとのパワーバランスに変化が生じたとはいえ、彼らのクルマには速さと信頼性がありました。新時代の"トヨタ対フェラーリ"の戦いは非常に見応えがあり、その他のクルマも随所で速さを示し、最後の最後まで緊張感のある戦いが続きました。そういう意味では100周年大会にふさわしい華やかな1戦になったといえます。...が、個人的にはスポーツよりもエンターテイメント色が強められたレースだったことが少々残念でした。レース直前のBoP変更はプロセスに関しても、タイミングに関しても、そして調整量に関しても、クエスチョンマークがつくものだったと僕は思います。BoPが変更されなかったら、優勝争いはさらにドラマチックなものになったかもしれませんし、違った結果になっていたかもしれません。そして、同じようにフェラーリが勝ったとしても、その価値はより純度が高かったはずです。
自分がモータースポーツジャーナリストという仕事に就く中で、記念すべきル・マン100周年の記念大会を取材することができたのは大変嬉しいことでしたし、息詰まるようなレース展開に興奮もしました。しかし、同時に「モータースポーツのあるべき姿」について、改めて深く考えることになった1戦でもありました。