334LAP2023.02.22
三笘の1ミリに思う
先のサッカーW杯で話題をさらったビデオ・アシスタント・レフリー(VAR)は、スポーツのあり方を世間に問ういい機会になった。定められたルールに則って競技が進められるスポーツには、プレーの正否を判定するレフリーが欠かせない。絶対的な実権が与えられている。だが、人間である以上、見落としがある。誤審もある。それをVARがサポートする。他のスポーツに先駆けて、早くからビデオでの検証が行われているモータースポーツが考えさせるものとは…。
鷹揚だったモータースポーツ黎明期
「ポストに見えないようにプッシングすればいいんだよ」
数十年前のサーキットは、判定システムがいまほど厳格ではなく、曖昧なままレースが行われていた。だから、当時こんな指導を僕らは受けて育った。
サーキットは広く、審判員ともいえるポストからの死角は少なくない。審判の目を盗んでライバルをコース外に押しやる、それも含めてドライバーの技術だと言われていた時代があったのだ。
ペナルティを受けずに、誰よりも早くチェッカーフラッグをくぐれば勝者。手段は問わない。それがかつてのレースのスタイルだったように思う。
コースを監視するカメラは少なく、あったとしても映像の解像度は低い。ライバルとの接触や、四輪脱輪などコース外走行の監視には限界があった。そもそも、四輪脱輪禁止というルールもなかった。
コントロールタワー3階の競技長室からコースで行われている詳細を監視することは不可能だから、そのバトルが正しいのか否かは、ポスト員の判断に頼っていた。冒頭のように、ポスト員の目を欺きながらバトルを制することが、ドライバーが勝つためのテクニックのひとつになっていたのである。
日本における黎明期のレースを見れば、それはあきらかだ。
たとえばスタートの瞬間、グリッドに並んだマシンはシグナルが赤から青になる前にウゴウゴと動き始めている。すでに前のマシンの真横まで並びかけているマシンもいた。そしてスタートダッシュで抜き去る。それでも、テレビ解説者はこう言う。
「抜群のスタートですね」
賞賛されていたのだから笑える。いまなら確実に全車フライングでペナルティの対象だろう。
だが、それはまるで相撲の立ち合いの間合いのようで、微妙な駆け引きに興奮する。
特に鈴鹿サーキットのスターティンググリッドは下り坂だから、マシンが動いても仕方がないでしょ、という寛容さである。
鈴鹿サーキットの1コーナーは、かなりの右高速旋回である。マシンはグリップ限界でかろうじてバランスを保っている状態だ。ここで仮に右のバンパーサイドをチョンと押す。すると前のマシンはほぼ確実にコースアウトする。そうして順位をひとつずつ上げていく。これはレースで勝つための常套手段だった。
レース後にいくら苦情を申し立てても、負けは負けだった。
「そんなところで、インから押される自分が甘いんだよ」
そう叱咤されるのがオチだった。
いわば喧嘩レース。
攻防は高度化していく
最近のレースは厳格になっている。接近戦であってもライバルがコース上にとどまれるだけのスペースを残さねばならず、故意のプッシングはペナルティの対象になる。
だが、そのドライビングが故意であったか否かをジャッジするのは簡単ではない。あからさまにステアリングを切り込んでライバルをコースアウトに追いやる行為はペナルティの対象になるが、マシンがコントロールを乱していれば、それは故意とは見なされず、不可抗力のレーシングアクシデントとして不問に付されることが少なくない。
たとえばヘアピンコーナーの立ち上がりで、ライバルがアウト側から並びかけてきたとする。絶対に抜かれたくない場面だ。
そこでライバルに向けてステアリングを切り込めばアウト。故意と映る。だが、あえてステアリングをライバルから離れるように、ライバルとは逆側に切り足す。
だが、ドライバーは故意にアクセルを強く踏み込み、強いアンダーステアを誘い出す。フロントタイヤはスリップアングルが増えすぎたことで横グリップを低下させる。アクセルを強く踏み込んだことでトラクションを高める。摩擦円の概念を引き出すまでもなく、マシンは強いアンダーステアでライバルを押し出す。
これは合法か否か。
ドライバーは、ステアリングをライバルに向けて切り込んではいない。マシンはコントロールを失って、結果として、ポスト員の目にはライバルを押したとは映らない。故意ではなく不可抗力と判定される可能性が高いのだ。タイヤの特性を理解した上での頭脳的なテクニックだと言えなくもない。
ビデオ判定が形態を変える
もっとも、最近の高度に進化したビデオ判定システムにより、コース上のバトルはかなり詳細に審判団の管理下に置かれる。ポストから上がってきた案件は即座にビデオ検証され、可能なかぎり素早く判定がくだされるようになった。
かつて、あれほど寛容だったフライングは、地中に埋められたセンサーによって1ミリの動きも見逃さない。
コースをあらゆる角度から撮影するビデオシステムによって、四輪脱輪の検証も正確だ。
車載カメラの充実も、レースを監視するのに有効である。
レースの特殊性
レースは、簡単に中断できないという特殊な事情がある。スタートしてからチェッカーフラッグが振りおろされるまで、あらゆるところで多くのマシンが攻防を繰り広げている。サッカーやラグビーが一つのボールを中心にプレーが進むのとは異なり、レースの起点はさまざまなのだ。その都度、レースを中断させることは現実的ではない。
黄旗区間、コード60、フルコース・イエロー(FCY)、ペースカーラン(SC)、赤旗中断…。安全を優先するための介入はなくはないものの、A車とB車の判定のたびにすべてを止めてはレースが成立しないのだ。興味をそぐ。興奮が冷める。
相撲は、審判団が土俵で議論を重ねるスタイルの「物言い」から、楽屋裏でのビデオ判定が無線で審判団の耳に届けられるというスタイルに変わった。
そこでのビデオ判定いかんでは、審判長は「同体と見て取り直し」を宣言する。
がっぷり四つに組んだ取り組みが長引いた場合には、一旦の休憩を挟み、また新たに体勢を整え直して再開することもある。
野球も同様に、アウトかセーフかの微妙な判定では、監督が「リクエスト制度」を提案することができる。選手をもとの塁に戻してからプレー再開が可能だ。
サッカーにもビデオ判定が導入されている。オフサイドがからむ微妙なシーンでは、審判団の検証によって、プレーの中断がする。サッカーW杯で話題になった「三笘の1ミリ」のように、ジャッジが覆ることもある。
ラグビーは、違反があったとしても即座にプレーを止めずに、アドバンテージを申告することでプレーを続行。それでも敵が有利になった場合には、攻防を元の陣営に戻してから、改めて再開することもある。
それまでのプレーがなかったことになり、時間を戻して競技が繰り返される。
だが、レースの場合それは簡単ではない。せっかく築いたリードが無駄になることもあるわけで、レース中断や再開は、極端な有利不利を生む。公平はあり得ない。
特にSCは、そのタイミング次第でレース展開がガラリと変わる。
2021年のF1最終戦の最終ラップ、ポイントリーダーのL・ハミルトンがM・フェルスタッペンに抜かれてチャンピオンを逃したのは、レフリーの判断ミスという声も殺到し当時物議を醸したが、だからといって再開はない。ハミルトンにとっては幻のチャンピオンとして苦い記憶になった。
そもそも、クラッシュしたマシンは簡単には修復できない。「プッシングされなければマシンが壊れずに僕が勝ったはずだから優勝にしろ」はないのである。
ただ単に、加害のドライバーにペナルティが加わるだけである。
「やられ損」という言葉が適切かどうかはわからないけれど、レースは生き残ることが最優先にされる。その意味でレースは、連続性を途切れさせることのできない特殊なスポーツだと言える。
デジタル化の功罪
デジタル化が高度に進んだことによって、ミスジャッジは減るであろう。歓迎される。だが、功罪を唱える意見もある。
「マラドーナの神の手」 (アルゼンチン代表のディエゴ・マラドーナによるW杯決勝戦でのハンドが見逃され得点となった) に象徴されるように、スーパースターの逸話が生まれにくい。
一説によると、その後伝説の5人抜きをやってのけるマラドーナは神のような存在であり、そんなスーパースターのプレーに審判がハンドを宣告する勇気がなかったとも。真偽は怪しいけれど、そんな逸話が生まれるのも楽しいのだ。
レース界でも同様に、「興奮した星野一義さんにペナルティを出す勇気がない」と怖気付く審判もいたとかいないとか…(笑)。
読売巨人軍の長嶋茂雄選手は、空振りしたバッドを巧みに捻ることでスイング判定から逃れていたという話を聞いたことがある。本当なら、その技もスーパースターだから許されたのかもしれない。
広島東洋カープの達川光男選手も、あたってもいない球を痛がってデッドボールにさせたという逸話がある。プロ野球珍プレー好プレーの常連になった。
ストライクか否かの判定は、捕手によって大きな差があることが判明しているという。捕球する時の、ボールがミットに収まる時の音の響きや、捕球姿勢によって、際どいコースをストライクと判定させるテクニックがあるという。「フリーミング」と呼ばれ、米国大リーグでは年間で20点から30点の誤審があるという。最近のデジタル化の検証で明らかになっている。
米国大リーグの3Aマイナーリーグでは、「ロボット審判」の導入が決定した。これからはキャッチャーのそんな「職人技」が封印されることになる。
デジタル化に無縁な武士道・剣道は、審判の判定が絶対である。そのために、正々堂々と竹刀を合わせ、「メン」と「コテ」と「ドウ」、そして「ツキ」と攻めどころを申告して攻めることがルールになっている。竹刀の弾かせかたで、「一本」か否かを誘導するのもテクニックだ。
一方、フェンシングは電気信号によって勝敗が決まる。人間では判定できない0.001秒の差をも、デジタルに判断される。審判の感覚が介入する余地はない。
血の通った人間が、感情を持つレフリーによってコントロールされることを前提に進化してきたスポーツが、デジタル化することの寂しさがどこかにある。
「三笘の1ミリ」のようにデジタル化がスーパースターを生むこともありながら、マラドーナの神の手のような伝説が消えていく。
技術的な進化によって支えられているレースではあっても、どこか人間臭い職人技が生かされる競技であってほしいと、心のどこかで願っている。
キノシタの近況
「ノスタルジック2デイズ」が横浜で開催された。ネオクラシックカーを中心にした旧車を一堂に揃えた一大イベントには、多くの魅力的なモデルが展示された。かつて華やかだった頃の日本車が眩しい。それはまるで、絶滅が危惧されている内燃機関への未練でもある。「やっぱりクルマはこうじゃなければねぇ」会場では、誰もがそう語っていたような気がする。