モータースポーツジャーナリスト古賀敬介のWRCな日々

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サファリ・ラリーに魅せられて

WRCな日々 DAY7 2020.7.17

サファリ・ラリーに魅せられし者は、いつか再びケニアの地を踏む。その時を、僕は18年も待っていた。最初にして、最後になってしまったサファリ・ラリーの取材は2002年。50回目を祝う記念大会は、結果的に最後のWRC開催イベントになった。経済事情や治安など、WRCがケニアを離れた理由はいくつかある。しかし、それによってWRCは大きなアイコンを失ってしまった。個人的には、ラリー・モンテカルロとサファリ・ラリーは、WRCの精神的な支柱だと考えている。モンテカルロがラリーの女王ならば、サファリは王。長らく不在だった「キング」の帰還がようやく決まり、僕は今年7月のラリーウィークを心待ちにしていた。それだけに、新型コロナの影響で復帰戦が中止となった時の失望は、例えようもなく大きかった。

サファリ・ラリーと、そこでのトヨタの活躍については、世界ラリー史に残るストーリー「伝説のサファリ・ラリー」に詳しく書かれているので、是非そちらを読んでいただきたい。ここでは、僕個人がただ1度の取材で感じた、サファリの魅力について記したいと思う。

2002年、出版社を辞めフリーのジャーナリストになった僕は、ケニア行きの航空券を買った。それまでWRCイベントは何度も取材していたが、サファリに行く機会はなかった。取材で1週間以上も編集部を留守にすることなど、できなかったからだ。しかし、会社を辞め、お金はないけれど時間はできた。ならば、子供の頃から漠然と憧れを抱いていたサファリ・ラリーを見るしかないと、インド経由でケニアに向かったのだ。

ケニア行きの目的は、イベントの取材以外にもあった。それは、1993年にST185セリカGT-FOUR(ターボ4WD)で、WRCサファリ総合4位に入った岩瀬晏弘さんと一緒に、東アフリカのサバンナを走ること。もちろん、ただの観光ドライブではない。広大なエリアで開催されていた、古のサファリ・ラリーのコースを辿ることが最大のテーマであり、そのガイド役として岩瀬さん以上の適任者はいなかった。

岩瀬さんこそ、まさにサファリ・ラリーに魅せられた人である。ラリーに没頭するためケニアに住み、ガレージを設け、自力でトヨタのワークスドライバーにまで上りつめた。まだ、若手育成プログラムなどなかった時代である。サファリの道を知り尽くし、鍛練を重ねてクルマを壊さず速く走らせる術を身につけたからこそ、岩瀬さんはワークスドライバーに抜擢され、ユハ・カンクネン、マルク・アレン、イアン・ダンカンに次ぐ、総合4位という素晴らしいリザルトを記したのだ。

その岩瀬さんと巡ったサファリの旅は、今思い出しても本当に素晴らしい日々だった。内陸の首都ナイロビを出発し、東海岸のモンバサへと至るコースは、クラシックサファリの代表的なルート。途中に、いくつもの「古戦場」があった。石油のパイプライン沿いを走る道「パイプラインロード」は、赤土の直線区間が何十キロも続き、ひたすらアクセル全開で走り続けたという。僕らが通った時には大きな穴がいくつも空いていたが、ラリーカーなら全開で通過すれば穴に落ちることはなかったそうだ。

サファリは完走率が低く、確かにサバイバルラリーではあったが、超高速ラリーでもあった。ステージの平均速度は、WRC全イベントの中で1、2を競う速さ。あの、ラリー・フィンランドよりも高速な年も何度かあった。一方、野生動物保護区としても有名な「タイタヒルズ」は緑が多く、曲がりくねったワインディングロードが続く。未舗装路だけでなく、ヨーロッパのラリーのような舗装路もあることに驚いた。「サファリには、雪道以外の全ての路面があります。だから、サファリを走り込んだドライバーはみんな速くなる。カルロス・サインツも、リチャード・バーンズも、サファリを経験して、さらに速さを増しました。サファリはドライバーを育てるラリーなんです」という言葉に、僕は助手席で深く頷いた。

WRC最後の2002年大会は、CS(コンペティティブセクション)と呼ばれる競争区間が約1000km、移動区間も含めると約2500kmという、当時のWRCとしてもスケールの大きなイベントだった。参考までに、現在のWRCは競争区間であるSS(スペシャルステージ)が350km前後、移動区間は1500kmに満たないラリーが多い。それでも、岩瀬さんは「サファリは随分と小さくなってしまいました」と嘆いていた。さらに昔は総走行距離5000~6000kmという、とんでもなくビッグなラリーだったのだ。「走っても走っても目的地に辿りつかず、本当に疲れましたよ」と、岩瀬さん。ちなみに、競技区間を他のラリーのようにSSではなく、CSと呼んでいたのは、道が完全に封鎖されていなかったからだ。封鎖しないのではなく、現実的に封鎖する術がなく不可能だったのだ。さすがに、2002年大会では交通はかなり厳格にコントロールされていたが。

古戦場を巡る旅を続けるうちに、僕はどんどんケニアに惹かれていった。ラリーのステージだけでなく、それを取り巻く環境も魅力的だった。首都ナイロビは当時治安が良くなく、最大級の警戒が必要だった。しかし、ひとたび郊外に出れば人々はおおらかで、優しく、とても親切だった。レストランなどない村では、シク教徒の教会や、知らない人の家で昼食をご馳走になったりもした。わけのわからない東洋人を、みんな笑顔で迎えてくれた。もちろん自然も素晴らしく、野生動物保護区では悠々と生きるキリンや象、ライオンの姿を見て、子供のようにはしゃいだ。そして、旅が終わるころには、岩瀬さんをはじめとする多くの人が、ケニアを愛する理由を理解できたような気がした。「よし、これから毎年サファリを取材するぞ」と決意した翌年、WRCはケニアから離れてしまった。それから18年、僕の中でサファリ熱はくすぶり続けている。

WRC最後のサファリ勝者は、コリン・マクレーだった。その彼はもうこの世にいない。現役トップドライバーの中で、サファリに出た経験がある選手は、セバスチャン・ローブだけ。ほとんどの選手にとってサファリは未知なるラリーであり、それだけに憧れの気持ちが強い。現代のドライバー、そして最新のWRカーが一体どのようにサファリ・ラリーを戦うのか、非常に興味深い。たしかに昔に比べればスケールは小さくなったが、それでもサファリはサファリ。アフリカの大地はそれほど甘くないだろう。今から、来年の夏を楽しみに待ちたいと思う。

古賀敬介の近況

WRCお休み期間中は仕事部屋を片づける最大のチャンスと、昔の資料や写真の整理に手をつけたのですが、どれも懐かしくて思わずじっくり見てしまい、なかなか作業が進みません。特にサファリを取材した2002年は自分がフリーとして仕事を開始した年だったので、思い出の品が次々と出てきて感傷的な気分になりました。しかし、その当時の自分の写真を見て、今とは随分と違う体形にがく然。18年の歳月は……残酷ですね!?